人間の尊厳を傷つける社説からの転換を
沖縄王版『琉球新報』紙面批評−2004年5〜8月分


 新聞はすぐにたまる。というわけで、 4ヵ月分まとめて書くことにした。これを書き上げても、 まだ約4ヵ月分が待ち構えている(涙)。

 さて、まずは5月1日付朝刊の1面頭記事は<憲法県民アンケート>である。 横見出しの<改憲必要50.7%>が目を引く。

 これを受ける社会面は、改憲の割合が護憲の割合を上回ったことを根拠に、 <護憲、改憲両派から「沖縄でもついに」「意外だ」と一様に驚きの声が上がった>と前文で驚いてみせた。

 しかし、この記事で論評しているダグラス・ラミスさんの言うとおり、 <改憲50.7%といっても、環境権などを全部含めてのもの。 九条改正が必要というのは33.6%しかない>という見方をすべきである。

 地方分権の拡大や環境権の設定、 国民投票制などの改正賛成派と九条改正賛成派を一緒くたにして<改憲必要50.7%>と横見出しを張ったのは、 ミソとクソのチャンプルーであり、到底食えたものではない。 どうしてこんなまとめをしたのか理解に苦しむ。 ううううう(←苦しんでいる様子)。

 で、ラミスさんは九条改正賛成派である33.6%を「しか」と見くびっているけれど、 いいのか「しか」で。 平和を希求するなどと言われる沖縄で、3人に1人が賛成しているんだぞ。

 この社会面記事には改憲賛成派の人の論評が載っている。 護憲派の<驚きの声>だけを載せることをしなかった点で公平な記事になった。 この姿勢を基地問題にも応用できればもっとよくなる。

 9日付の1面頭記事はYナンバー車両による<車庫法違反野放し>という特ダネ記事(のはず)である。拍手!

 27日付朝刊4面の<記者の余録>で座波幸代記者が昨年の沖縄観光客数を<508万人に達した>と記している。 しかし、観光客数を数える確実な方法はないし、 都道府県によって数え方はばらばらである。 役所の数字をそのまま安易に使わないほうがいいと私は思うが、どうだろう。 誰がどうやって数えたんだろうね、508万人を。 せめて「推定」と断って留保を示してもいいのではないか。 数え方について正確な手法が確立されていないのに、 数字を鵜呑みにするのはいかがなものか。行政への無意味な迎合は避けたほうがいい。

 6月2日付朝刊の社説は泡盛業界が品質表示基準を定めたことを評価する内容である。

 これまではデタラメな表記がまかり通っていた。 簡単に言うと、新酒49%と古酒51%を混ぜた泡盛は「古酒」と表記できたのである。

 詐欺に近い表記である。これはおかしいのではないかと私が業界団体に問い合わせたところ、 対応に出た人は「公取の了解もある。問題はない」と言い放った。 2年前の話である。この間、泡盛に関する新書や雑誌が出版されているが、 詐欺的表記について言及したものは私が見た限りでは皆無だった。

 同日付夕刊のヤング面の写真説明文は<他のDJとキャラクターについてけんけんがくがく>と書いてしまった。 正しくは「かんかんがくがくけんけんごうごう」である。混同しないように。って、普通は知ってるぞ。

 久々に私は主張するぞ。琉球新報社に校閲部を!

 そういえば、私の「新報社に校閲部を」という主張を読んだ新報記者から「校閲部はあるんですよ」と教えてもらったことがある。 新報社に校閲部があることはもちろん知っているのだが(苦笑い)。

 7月3日付朝刊の文化面は共同通信の記事(たぶんね)を載せた。 「自己責任」に対する当事者の反論や感想などが載っている。

 これを読むと相変わらず議論がかみ合っていない。 というか、「自己責任」の定義が定まっていない。

 4月26日付『毎日新聞』の「グローバル・アイ」で西川恵・専門編集委員が <私なりに「自己責任」を解釈すれば「他人のせいにしない」ことだ。 今回のことで言えば「自衛隊派遣のせいで人質になった」「こうなったのは日本政府のせい」というべきではない。 ジャーナリストもNGOも、所与の条件の下で活動するよう運命づけられているからである> と的確に指摘している。 私が目にした中で最も的を射た言及なので、ここに記しておく。

 7月7日付朝刊で<沖縄戦新聞>という連載を始めた。 非常によく出来ている。沖縄の新聞社らしい企画である。

 14日付朝刊の<金口木舌>は<道に落ちている十円玉を拾う人は、 何人いるだろう。拾っても、交番に届ける人は少ないだろう> <大人のそんな姿を、子どもたちはどう見るだろうか。「泥棒」と映るかもしれない。 この感覚が大切だと思う。わたしたち大人は、その感覚を失っているのではないか>と書いてしまった。

 これを書いた記者は10円玉を拾ったら交番に届けるのが正しいと本気で信じているようである。 筆者は幼児なのか?

 交番などに届けるかどうかの判断は、金額や拾った場所などによって変わる。 例えば、道端で拾った10円玉は警察に持って行かなくてよい。 しかし、学校の教室で拾ったのなら担任の先生に届けたほうがよさそうだ。 状況によって判断は変わるのである。 臨機応変というか柔軟さというか、そういうものがあったほうがいい場面である。

 <子どもたちを見習うことから始める必要があるのかもしれない>と恐ろしいことを書いてしまったこの筆者は、 10円玉を拾ったら警察に届けるのだろう。頑張ってくださいね(笑い)。

 20日付朝刊1面は外務省の内部文書である「日米地位協定の考え方」増補版を入手したという特ダネである。 元旦の特ダネ以来ずっとこの問題を追いかけており、私は惜しみない拍手をおくる。

 8月4日付朝刊6面は<読者と新聞委員会>の会議報告である。 依頼原稿に琉球新報社が勝手に手を加えることについての議論は興味深い。

 ゆたかはじめ先生の<一生懸命考えたタイトルを勝手に変えられたりした。 依頼原稿でこういう対応をされると、人格を傷つけられることになる>という発言が載っている。

 私の理解では、題名などについては編集権に属するはずである。 ただ、法曹であったゆたか先生がこの辺りのことを誤るわけがない。 とすれば、編集権は認めるけれども、題名などを変更するなら事前に連絡してほしい、という意味かなと私は解釈している。

 雑誌の場合、下刷りを筆者に電送し、 その際には編集者が手を加えたい部分についていちいち細かく書き込む。 何度もやり取りを交わすから、筆者の了解を得ながら進む。 このような仕組みが新報社にないのが原因だろう。

 速報性の求められる一般記事ならまだしも、 掲載までに日時の余裕がある原稿は、 下刷りを電送もしくは郵送することを規則化したほうがいいかもしれない。

 <依頼原稿は手直ししたものを執筆者に見せ、 了解を得る作業を徹底せよと指示している>と宮良編集局長は改善策を披露した。

 ただ、勝手に手直しする前に、「ここをこのように変えたいのですがいかがですか」というふうに、 許可を得てから手直しするのが筋であり原則である。 ただし、書き慣れない人が書いた原稿は支離滅裂でそのまま掲載できない場合がある。 したがって、原稿の出来具合に応じて臨機応変に対応するのがいい。

 8月9日付夕刊の<南風>を執筆した池間誠・一橋大大学院教授の原稿は、 沖縄がほかの地域といかに異なっているかということを強調しすぎることにやんわり異議を唱えた。 <根本は同じであることが多い>という指摘に耳の痛い人は少なくあるまい。 こういう冷静な空気がもっと広がったほうがいい。

 11日付の<南風>を執筆したのは、登川誠仁さんを師匠といただくという徳原清文さんである。 師匠に関する非常に面白い内容だった。

 12日付朝刊2面は、新報社が関わる琉球フォーラムの記事である。 カジノ導入が組織犯罪や賭け事依存症にほとんど影響を与えないことを米国の研究者が語ったという内容だ。

 賭け事の場所づくりに対しての感情的な反対論がたまに掲載されてきた。 一般的にはそんなもんだろう。しかし、それだけになおさら、 このような研究者の話を聞くのは重要である。

 アテネ五輪を2番手に置き、米軍ヘリ墜落事故を1面頭で報じ続けた。 実に真っ当な紙面づくりだ。

 21日付朝刊1面は、対馬丸を攻撃した米潜水艦乗員の証言を掲載した。素晴らしい特ダネである。 子供が乗っていたことを知らなかったこと、 知っていたなら撃たなかっただろうという発言は、関係者を身悶えさせるだろう。

 同じ朝刊の26面は、沖国大に墜落したヘリの飛行した航路を、 複数の目撃者への取材によって地図化した。 労作である。1面に出してもよかった。

 23日付の社説は<寛容な県民にも変化が><しっかりと聞け県民の痛み>という見出しでドカーンと掲載した。

 予想通り、<県民が「反基地」ではあっても、 「反米」ではない>という“お決まり”の記述を私は見つけた。

 これを文面どおり素直に読むと、県民みんなが反基地の立場にいるとしか読めない。

 この社説を書いた論説記者は取材活動をしていないことがよく分かる。 普通に取材活動をしていれば、<県民が「反基地」>と書いた瞬間、 「いや、現実はそうではないよなぁ」と気づくはずである。

 気づかないふりをしているとすれば記者失格だし、 本当に気づいていないとしても記者失格である。 主張や希望と現実を明確に区別できなくなっているのだろうか。

 というボヤキは措くとして、一番重要なことを指摘しておく。すなわち、 沖縄の新聞社がこのような主張を続ける限り、 米軍基地問題で沖縄県民がまとまることはないということだ。

 こういう一方的な主張は、基地賛成派の存在を無視することと同視しうる。

 沖縄の基地問題が複雑化している最大の理由は、 米軍基地を職場として、あるいは取引先として、 生活している(生きている)県民が大勢いるからである。 この現実に目をそむけて、あるいは存在しないものであるかのように扱い、 県民全員が基地反対でまとまっているかのような大嘘を唱えるのは、 米軍基地で生活をしている県民への侮辱であり、失礼極まる。

 社説のこのような姿勢が基地で働いている人の尊厳を害していることに気づいていないのだろうか。

 社説記者は恐らく大きな勘違いをしているというのが私の推測である。 すなわち、沖縄に基地賛成派が存在することを認めたが最後、 新聞社が基地賛成に転じたと見られるのではないかと恐れているのではないか。

 しかし、である。基地賛成派の存在を認めることと基地反対の論陣は両立する。 いやむしろ、基地賛成派の存在を明確に認めることから議論を始めなければ現実的な基地問題を考えることはできないのである。

 しつこく繰り返す。現実を無視し、基地で生活を維持している人の存在を黙殺し、 その尊厳を傷つけていることを気づいていないとすれば、 新聞社としては救いようがない。

 基地で食っている人が少なく見積もっても1万人以上いる。 間接的な関係者(例えば扶養家族)を考慮するとこの人数は膨れ上がる。

 この現実を踏まえ、そういう人たちの生活を考えながら、 基地問題について発言するべきである。 現実的な主張をしてこそ基地問題で県民がまとまりうる議論になりうる。 今のままでは「朕(社説記者)はたらふく食っている。 汝人民(基地就業者)飢えて死ね」と同じだ。 ――という基本的なことを、社説記者は相変わらず理解できないらしい。

 基地賛成派を巻き込んだ議論を喚起しなさい。 自分勝手なことだけをわめくヨッパライ社説から脱却しなさい。 基地で働く県民の尊厳に思いを寄せないさい。 ん? 何だか語尾が喜名昌吉の「花」みたいになってきたなぁ。

 基地賛成派が巻き込まれざるを得ないような現実的な主張を展開できるのは、 『新報』が先だろうか『タイムス』が先だろうか。

 31日付朝刊1面は、米軍ヘリ墜落事故で県警などが米軍に阻まれて現場検証できなかったのに対し、 <沖縄以外では検証認める><地位協定、恣意的に>などの見出しで報じた。特ダネである。 沖縄が不公平な扱いを受けたことを証明した立派な記事である。

 記事はよく頑張っているのに、どうして社説がひどいんだろう。 誰も読んでいないからか? (沖縄王・西野浩史)






©2004, 沖縄王