私が「学歴は琉球大終了」と名乗ったら・・・
沖縄王版『琉球新報』紙面批評−2004年3〜4月分


 3月2日付夕刊社会面の頭記事は非常に興味深い。 <「沖縄ファン」増え 揺れる本土県人会>の見出しが記事内容を端的に示しているように、 各地域にある沖縄出身者の県人会に沖縄好きの地元住民が加入し、摩擦が生じているというのだ。 偶然にも私の古里・徳島の様子が取り上げられており、 <地元の沖縄ファンクラブと合同で活動していたが、年配会員の不満を受け、 二〇〇二年から県人会単独の活動に切り替えた>そうな。

 沖縄を好きになった本土の人の中には、沖縄の人と出会いたい触れ合いたいと思うのだろう。 しかし、人と人には相性というものがある。 おそらく今後も同じような摩擦がいろいろな場で生じるに違いない。 沖縄で暮らして沖縄が嫌いになった人もいるくらいだから、相性というのは本当に難しい。 人数が増えれば考え方の違いが顕在化するのは当たり前で、 それほど顕在化しないのは北朝鮮くらいである。人がまとまるのは簡単ではない。

 沖縄熱が高まっているこの時期に、 摩擦が生じているという現実をすくい上げたこの記事には意義がある。 発掘した記者の手腕に拍手をおくりたい。

 3日付朝刊1面に、東門美津子衆院議員(社民党)の学歴詐称についての記事が出た。 米国の「オハイオ大学大学院修士課程修了」という学歴が学歴詐称だとする報道に対して、 東門議員が会見し、<修士論文は提出していなかったが、必要な単位は取得した。 すべての課程を修了したという意味で『修了』と書いた>という言い訳を載せている。 要するに、実際には存在しない「修了」という肩書きを勝手につけていたのである。

 <会見で東門氏は、出馬の際、学歴表記については家族や先輩、 党の関係者とも話し合って決めたと説明し、「論文を書いていないので、 『卒業』や『修士号取得』ではなく『修了』にした。間違っているとは思っていない」と述べた> そうな。

 間違っていないという認識自体が根本から間違っている。

 学歴表記を相談する相手は<家族や先輩、党の関係者>ではなく、当のオハイオ大学大学院である。 それをせず、自分が世間から高い評価を得るような表記を勝手に決めてしまったのだ。 意図的だといわざるを得ない。 そもそも<家族や先輩、党の関係者>に決める権利など一切ないのである。 <家族や先輩、党の関係者>にお伺いを立てるヒマがあるのなら、 オハイオ大大学院に問い合わせたほうがずっと早い。 それをしなかったのは、オハイオ大大学院の答えが最初から分かっていたからである。

 東門センセのやったことを分かりやすくするために、こんな仮定をしてみよう。 例えば、私が琉球大学の学食に4年通ったからといって「琉球大終了」と称したら……。変でしょ?  こういう場合、当然ながら私は琉球大に相談して 「4年間学食を利用してきたので終了と称していいですかね」と相談するべきなのだ。 しかし、「アホかいな」と一蹴されることは最初から分かっている。 そこで私は琉球大には相談せず、友人たちに相談して自分勝手に「琉球大終了」と称する。 こうして東門さんと同じ穴のムジナになるのである。

 存在しない学歴を勝手につくりあげることをデッチアゲと言う。詐称である。 オハイオ大大学院に問い合わせるべきところ問い合わせず、デッチアゲたのだから、 そこには明確な故意があると指摘せざるを得ない。

 もう1つ。修士論文を書いていないのにどうしてこんなに開き直れるのだろう。 修士論文を書き、その質を審査され、合格しないと修士号を取得できないのである。 修士論文を書かなかったのか書けなかったのか知らないが、 修士論文を書くことは一番大事なことである。 にもかかわらず書いていないとすれば、 「この人はいったい何のためにオハイオ大大学院に行ったのだろうか」という疑問が出てくる(笑い)。

 卒業論文を書いて合格しなければ「大卒」の学歴をもらえないことくらい、 日本の大学生でも知っている。というか、常識である。

 間違っていないと言い張り続けるなら、この人は国家議員に向いていない。

 以上、新報紙面での追及が甘いので、僭越ながら私が言及しておいた。

 同じ面に<泡盛品質表示を厳格化>という特ダネが載っている。 これまで泡盛の「○年古酒」表記はデタラメだった。 にもかかわらず、県酒造組合連合会は「公正取引委員会から認められた表記だ。問題はない」 と開き直っていた。ここに来て内閣府が設置した関係委員会で指摘され、重い腰を上げた。

 経済面の連載<おきなわ創業物語>は、 創業者たちの手前勝手な考えをそのまま垂れ流すという意味で「トホホ」と嘆きたくなるくらい面白いことがある。 21日付経済面では<ベトナムで「県産品」生産>をしている琉球ガラス工芸協業組合の稲嶺盛福代表理事の話が載った。

 <ベトナム産製品はいまや全製品の50%を占める。それは「県産品」なのか。 ベトナム工場建設を機に「県産品とは何か」を常に問い、問われた>

 「県産品とは何か」は常に問わなければならないような難問ではない。

 ベトナムで作られたのはベトナム産であって県産品ではない。 脳を逆立ちさせてもそういう論理は成り立たない。 なのに、どうしてこうも無理のある屁理屈をこねるかというと、 「ベトナム産」と呼ばれたくないからである。 しかし、ベトナムで作れば「ベトナム産」になるのは小学生でも分かる話だ。

 実際、人件費の安いアジア各地に日本企業は工場を移転させている。 そのような工場で作られたものは「メイドインチャイナ」や「メイドインタイワン」などと表記されている。 琉球ガラスだけ特別扱いしていい法はない。 「ベトナム産の琉球ガラス」と言えばいいだけである。

 ベトナム産の琉球ガラスなど、私なら絶対に買わないが、買う人もいるだろう。 だから、きちんと表記すればいいだけである。お客さんの立場で考えなさい。 琉球ガラス工芸協業組合がお客さんの立場になっていないことがよく分かる記事で、 そういう意味ではよかった。

 4月14日付朝刊社会面<こころの風邪 しのびよるストレス>は興味深い内容であるが、 この日の記事に矛盾する記述がある。

 40歳の女性の話で<「仕事上のストレスもあるにはあったが、 一歩会社を出ると全部忘れてしまう、便利な性格だった」> と自分のことを語る文章の直後に<仕事の後は友人らを誘い、 お酒を飲むことでストレスを解消することもあった>という。

 一歩会社を出たらストレスを忘れるはずの人が、お酒を飲んでストレスを解消する?  いったいどっちが正しいのか。読者にストレスを与えてくれる記事である。

 17日付<論壇>は、泡瀬埋め立てについて1985年ごろからのいきさつを踏まえた論考である。 ともすれば開発反対一辺倒の人たちが脚光を浴びやすいだけに、 地元で合意案ができていたなどの事実関係が正しいとすれば、 泡瀬埋め立てに対する見方が変わってくる。何のこっちゃ、である。 こういう経過は新聞が取り上げるべきものだと思うが、 異動や転勤があるから引き継がれないのかもしれない。報道会社が抱える問題点ではある。

 琉球新報の<論壇>で行事案内を目的とした原稿が横行しており、 このことについてかつて紙面批評で指摘したことがある。 だから、というわけではないのだろうが、<ネットワーク>という欄ができ、 そこに収容されるようになった。 これなら、「純粋な主張」と「自分たちの行なう行事の日時案内が主目的の、 論壇に名を借りた広報」を分けることができる。<ネットワーク>の新設を歓迎したい。

 21日朝刊文化面は面白い。 <落ち穂>はアメリカ人の父親と沖縄人の母親との間に生まれた話を大城洋子さんという人が書いている。 大城さんは「アメリカー」といじめられた経験や結婚に反対していた祖母が守ってくれたことを記した。 こういう経験のある大城さんの連載は非常に均衡がとれている。 基地反対一辺倒の人はどう読むのだろうという関心を私は抱いた。

 同じ面に大きく連載されているのは、<環境・平和憲法を守る国 コスタリカを訪ねて>である。 平和運動家が錦の御旗のように取り上げ、詣でる、そのコスタリカを訪ね、日本と比べた原稿である。 書き手は<憲法改悪に反対する市民運動に携わる>山口洋子さんだ。

 この原稿によると、コスタリカは中米にある<九州と四国を合わせたほどの広さの人口四百万人の小さな国>だそうだ。 私はコスタリカを訪ねたことがない。それでも最低限分かるのは、 国際社会において日本が占める地位や状況とコスタリカのそれとは全然違うということである。 コスタリカで実行できていることがあるから日本は見習えと言うのなら、その逆も言える。 根本的に土台が違う国を単純比較してはいけないというのは算数の基礎である。 小学校時代の算数の「比べましょう」という単元で習った記憶が私にはあるのだが、 コスタリカを愛する人たちは習わなかったのかな?

 念のために書いておくと、私は憲法改正に反対である。 骨抜きになっているとはいえ平和憲法を堅守すべきだと思っている。 だが、このようなコスタリカ賛歌原稿には拒絶反応を示してしまう。 憲法改悪派の人たちに対して何の説得力も持たない内容だからである。 このような問題に関しては、相手から笑われる内容は書かないほうがいい。 憲法改正派に軽くあしらわれるだけで、憲法堅守派には実利がない。

 24日付朝刊の文化面<あしゃぎ>には間違いがある。 まよなかしんやさんが<沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会会長を務めた牧港篤三氏の告別式に出席した>という部分と、 しんやさんの発言として紹介されている<1フィート運動の会の初代会長だった仲宗根政善さん>という部分に共通する誤りである。

 さて、どこが間違いでしょう。分かるかな?

 1フィート運動の会に<会長>は存在しない。存在するのは「代表」である。 1フィート運動の運営委員であるしんやさんが間違えたとは考えにくいが、 もしそうだとしても、確認作業は記者のイロハであると敢えて教育的指導をしておく。 (沖縄王・西野浩史)






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