憲法のイロハに「ほぉ〜」「へぇ〜」と、
うなること間違いなしの今回(って長すぎるぞこれ)
沖縄王版『琉球新報』紙面批評−11月分


 琉球新報社の創刊110年を記念した会議の扱い(12日付朝刊)は 妥当な範囲内だった。しかし、実は私はガックリした。だって、 妥当な紙面だったんだから、私は何とも言いようがないもんね。

 何年前だったか、ゴルバチョフを新報社が沖縄に招待したことがあった。 あの時の新報社のはしゃぎようたったら、ひどいものだった。 すでに過去の人になっているゴルバチョフの発言は、世界政治に 何の影響も与えない。全く与えない。しかし、そういうことを知ってか知らずか、 ゴルビーの一挙手一投足を報道したのだった。限度をはるかに超えた紙面だったと 私は今も思っている。

 その当時の『新報』読者の中には「世の中がゴルバチョフで大騒ぎしているみたい」と勘違いした人がいた。大騒ぎをしていたのは新報社だけだっつうのに。 でも、普通の人があの大報道を読めば、勘違いさせられても仕方ない。 それくらいひどいはしゃぎぶりだった。 一方、当時の『沖縄タイムス』はほとんど黙殺した (だって、新報社の招待客の話だもん、載せるわけにはいかないでしょ)から、 『タイムス』読者は勘違いさせられずに済んだ。

 今回の国際会議であの醜態を再びさらしてくれるかなと私は密かに期待していたのだった。私の性格の悪さが浮かび上がる話である。

 むろん今回もゴルビーは喜んだ。大統領を辞めて以来、厚い待遇には 縁がなくなっていたからね。だから今回も沖縄にやってきた。 ゴルビー以外にも「過去形の政治家」が何人かやってきて、話し合った。 12日付朝刊の1面には<国連の機能強化提起>の文字がある。う〜む、 そんなことは前々から提起されているってば。

 ケチをつけるつもりは毛頭ない。ただ、 創刊110年という節目で開いた行事を、私が意義付けしておかないと 誰もしないだろうからやっているだけである。ましてや主催者の新報社が 自己批評をするはずがない。

 24日付朝刊社会面に、酔った琉球大生が沖縄国際大の会議室に入って 寝てしまった、という記事が載っている。この記事を読んで私の脳は混乱した。

 <学園祭が行われていた宜野湾市の沖縄国際大学で二十三日午前八時五十分ごろ、 学生部の会議室に琉球大学の男子学生二人が侵入して酒に酔って寝ているのを、 同大の職員が発見した。学生らは通報で駆けつけた宜野湾署員に厳重注意され、 帰宅した。同大は週明けにも琉球大学に抗議する方針>

 沖縄国際大の職員が見つけた男2人が最初から「琉球大学」の学生だと 分かっていたなら、この書き方でよい。しかし、である。酔って寝ている男を見た段階で、 琉球大の学生と分かるだろうか普通?

 酔って寝ている男2人を沖縄国際大職員が見つけ、宜野湾署に通報した。 駆けつけた署員が聞いたところ、男2人は琉球大学の学生であることが分かった―― というのが順番として適当だと私は思うのだが、どうだろう。 だとしたら、このように書かないといかん。

 この私の考えは間違いで、実際は新聞記事の通り、 最初から琉球大の学生だと分かっていた場合は、別の問題が生じる。 琉球大の学生と分かっていて、沖縄国際大の職員は警察を呼んだのか?  大学は違うとはいえ、大学生相手に商売しているという点では同じなのに。 だとしたら、沖縄国際大は無粋だなぁと思う。

 さらに、沖縄国際大は大きな勘違いをしている。学生個人の失敗でしかないのだ。 琉球大に抗議してはいけない。そこまではしゃぐ話ではない。

 25日付の<社説>の見出しは<米兵「特別扱い」許せぬ>である。 でね、同じ紙面にある<読者相談室から>には相変わらず匿名の意見ばかりが掲載され、 投稿欄と比べると大いに<特別扱い>している。 <読者相談室から>に載る匿名読者の無責任言いたい放題をいつまで続けるのだろう。

 27日付夕刊1面頭記事は<改定特措法は合憲>という見出しの記事だった。 最高裁判決をまとめた<判決骨子>に<暫定使用は地主に意見を述べる機会が与えられており、法三一条違反とはいえない>とある。

 <法三一条>? それを言うなら「憲法三一条」だろう。 1面の記事なんだからしっかり確認しなさい。

 この判決について、翌28日付朝刊の<社説>は、 <奪われた法的抵抗手段>と題してこう書いた。

 <在日米軍基地をめぐる訴訟で、最高裁はこの間、安保体制に絡むものは 「高度な政治判断が必要」とし、人権を保障するため立法、司法、行政の三権の統治権を独立させる「三権分立の原則」を放棄したかのような判決を重ねてきた>

 <かのような>という妙な逃げを打っているけれど、 この指摘は根本的に間違っている。最高裁は「三権分立の原則」をきちんと 守っているのである。そのことを説明しておこう。

 日本は国民が国会議員を選挙によって選出し、その国会議員が国民を代表して 政治をしている。国民から選出された国会議員が国会で議論し、 安保体制などを決めてきた。 要するに、安保体制は国民の意思が反映されていると言うことができるわけね。

 一方、裁判所の裁判官は、国民から選挙で選ばれた存在ではない。 国民の意思という背景を持っていない裁判官は、 国民の代表である国会議員が決めたことを尊重するのが基本なのである。 「三権分立の原則」とはこういうことであり、 裁判所が国会の決定を尊重するのは当たり前なのである。

 政治に対して疑問があるなら国民が選挙によって 意思表示をすればいいと裁判所は考えている。非常に 真っ当な姿勢であり、日本は「三権分立の原則」が守られていると言うのが正しい。

 <あまりにも政府寄りで、基地の重圧に苦しむ沖縄の住民の立場をまったく考慮しない判決と言わざるを得ない>と<社説>執筆者が嘆く気持ちは分からないではないけれど、そういう選択をしているのは裁判所ではなく、国会議員を選ぶ有権者であるということは知っておいたほうがいい。

 だからといって、「沖縄のことをほかの都道府県民は忘れている!」と先走りしてはいけない。 よ〜く足元をご覧なさい。安保体制堅持の自民党議員を沖縄でも多数当選させているでしょ。ねっ。

 関連する話を書いておこう。 2004年2月13日付『毎日新聞』1面に<普天間返還 代替求めず>という 大きな記事が出ている。「普天間を日本に返すけど、代替施設はいらないよ」と 米側が日本政府に打診していたという内容である。この記事の中に こんな文言がある。

<沖縄県内には名護市沖の代替施設建設の経済効果に期待する声も少なくないため(以下略)>

 すべての沖縄県民が基地を拒否している わけではないんだよ、ということを、本土の新聞が1面で書いているのである。 沖縄の“最高機密”が、バレバレになっているのである。 バレていないと思っているのは地元紙だけかもしれない。 沖縄は一枚岩であるかのような書き方をいつまで続けるのだろうか。

 沖縄戦の経験に基づいて基地反対という気持ちは分かる。 でも、理念と現実を混同してはいけない。市民運動ではなく、 新聞なのだから、事実に基づかなくてはいけない。

 話を戻そう。この<社説>の結びの文章<このまま沖縄への構造的差別を繰り返せば、 怒りが増幅していくことも、政府や司法当局は知るべきだろう>というのもはなはだしい勘違いである。何度も言うけれど、自民党の国会議員を多数選出している自分の足元を見ないで、本土に責任を押し付けるのは単なる甘えでしかない。 それにしても、この最後の一文はまるで恫喝だな。「そのうち 暴れだすぞ」と言っているようにしか読めない。 北朝鮮が核で脅すのと似ていると思うのは私だけだろうか(いや私だけではない)。

 判決に関して、たまたま見たTBSの「ニュース23」で筑紫哲也さんが「下級審の判決と違う判決を最高裁が出した」ことを問題視していた。これも根本的に間違っている。というか、裁判制度の仕組みを理解できていない。日本の裁判は基本的に3審制を採っているけれど、1審2審の判決は言うなれば“中間報告”あるいは“最終判断に至る前の過程”に過ぎない。会社などの組織でも、いろんな議論をする「過程」と「結論」が違う内容になることはあるだろう。それと同じ。

 では、またね。サヨナラサヨナラサヨナラ(←お前は淀川さんか←いや違う。 沖縄王の西野浩史である)。





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