論評者の人選が安易すぎる
沖縄王版『琉球新報』紙面批評(2003年10月分)


 読者の投書を扱う<声>欄の場合、市町村名と氏名、 年齢が掲載される。一方、<読者相談室から>に載る意見は、 <声>と同じ面であるにもかかわらず、 市町村名も氏名も年齢もない、無責任な欄であることを私は以前指摘した。

 これが10月から実名表記になった。いいことである。 しかし、である。 名前は載るものの市町村名と年齢は相変わらず載らない。 <声>と区別する正当な理由があるとは思えないのに。

 <読者相談室から>は、読者が電話で意見を言うと、 それを記者がまとめてくれるようである。投書に比べたら簡単この上ない。 それはそれでいいことではある。しかし、 自分の意見を表明するという意味では<声>欄と何も変わらないわけで、 にもかかわらず、<声>欄には市町村名と名前と年齢が必要なのに、 <読者相談室から>は名前だけでいいというのが私には理解できない。

 端的に言うと、不公平である。

   ところが、7日付の<読者相談室から>は <新聞記事はすべてが署名記事になっていないのに、 読者に実名を求めるのは整合性がないのではないか。 沖縄は狭い世界だから何かものを言うとすぐ犯人捜しが始まる(略) 実名では言えないような市民の苦情を 調査報道を拡大することによって解決を図るべきだ>という意見を載せている。

 「意見発表」と「苦情」を混同している。 こんなのを載せるから、私に笑われるのだ。 <読者相談室から>は廃止したほうがいい。 読者の自分勝手な意見にいちいち右往左往してはいけないのに、 みっともないくらい右往左往している。公平さを保つ力量がないのなら、 廃止したほうがいい。

 7日付朝刊の社会面は、子供たちが連れ去られそうになる事件の多発を伝えている。 これを受けて、8日付の社説は<防犯、摘発に地域連携を>と主張した。

 <防犯と摘発には地域住民が一体となって取り組むべきだ> や<事件の防止、摘発に地域の連携は欠かせない>などと主張している。 これは間違っているわけではない。ただ、 非常に重要な点が欠けている。

 地域住民より何より、親や教師が子供たちに危機意識を教えるのが先である。

 私の場合、神奈川県平塚市内で暮らす自分の娘たちには 「昼間でも、友達が一緒にいても、公園のトイレを使うな」や 「車の中から声をかけてくる大人には近寄るな」、 「万一の場合は大声で『助けて』と叫べ」 「あの辺りで何かあったら給油所に駆け込め。 この辺りで何かあったら、コンビニに駆け込め」 などと具体的に教えている。また、下校の通学路を見直し、 人通りの少ない道は変更させている。

 日ごろから親が危機意識を持って教えているわけである。 その効果が出たのは、二女が小1の時だった。 下校の途中で非常に怪しい動きをしている大人を早めに発見して、 「助けて助けて」と声を上げながら逃げ、 声を聞いて家から出てきた近所の大人に保護された。 もちろんすぐに警察に届け(情報の共有)、 保護してくれた家には私がすぐにお礼にうかがった。 その翌日には菓子折りを持って再びお礼にうかがった。

 警察の話では、 二女が見た怪しい男は、 幼い女の子を狙っているとして警察が捜している男の人相や風体とそっくりだった。

 警察から連絡を受けた小学校では翌日全校生徒に事件についての周知と注意を呼びかける手紙を配布した。 その中に、家庭での日頃からの教育もあり生徒は無事だった、 という趣旨の一文があった。

 私はこれを自慢しているのではない。 娘を持つ父親として、どんなことがあっても犯罪から娘を守りたいと思っている。必死なのだ。 祈るような心境なのだ。 社説を書いた記者と私の違いはこの1点にある。

 社説で<地域社会>に訴えるのを悪いとは言わない。 何と言っても書きやすい。しかし、順番としては2番目である。 私が新報の論説記者なら <強制わいせつ事件の数字を見ると、驚かされるのと同時に、 強い憤りを覚える><幸いこれまで大事件にはなっていないものの、 背筋が寒くなる>などと書くヒマがあれば、 親が危機意識を持って子供に伝えることの重要性を書くけどなぁ。

 地域ぐるみで取り組め、という結論はあまりに安易であり (そういう意味では社説らしい社説と言える)、 誰でも書ける社説である。そんな社説であってはならないと思う。だって、 それで商売をしているんだから。

 9日付朝刊の社会面には沖縄戦の記事が掲載された。 轟の壕にいた住民を米軍が収容する様子を収めた映像を、 ドキュメンタリー作家の上原正稔さんが入手したという内容である。 上原さんの調査はさすがだなぁと私はあらためて思った。

 この記事には、石原昌家・沖縄国際大教授の<轟の壕から避難民が投降した日時には諸説があるが、 映像から、私が書いたように六月二十五日だったことが確認されたことは意義深い> という評が載っている。 石原先生にとってはそういう<意義>があるのだろうけれど、 我田引水自画自賛になってしまっている。 上原さんの調査を真正面から評価する人に論評してもらうべきだった。 これでは上原さんに失礼である。

 記事にはもう1つ論評が載っているのだが、 申し訳ない、これには言及できない。 15年前に沖縄で暮らした時に大変お世話になった人なので、どうしても言及できない。

 取材で得た論評がイマイチな場合は、 いい論評を得ることができるまで人を探すべきである。 地元紙を読んでいると、論評者の人選が安易だと感じることがある。 私の経験でも、毎日新聞福島支局で仕事をしていた時に論評を求めることがあった。 県内に適当な人がいない場合は、県外の論者に電話して話を聞いた。 『マスコミ電話帳』などを見れば、 大勢の識者の住所と電話番号が掲載されている。 持っているよね? いい紙面を作るのが仕事なのだから、 論評者を県内限定にしなければならない理由はない。みやげ物とは違うのである。

 人選が安易という指摘があてはまる事例をもう1つ挙げておく。

 13日付朝刊の特集として<第2期「読者と新聞委員会」初会合>の様子を掲載している。 前にも書いたように、 新聞の役割や仕組みを理解していないうえ新聞を読む能力に欠ける人がトンチンカンなことを語り、 それをそのまま載せてしまう傾向が、こうした記事にはつきまとう。

 例えば、編集者の新城和博さんは<最近、地元紙にはハッとさせられることがなく、 刺激がない。記事で沖縄の見方を変えられるようなことがない。 一人ひとりの記者の個性は違うはずなのに、記事はパターン化し、 全部同じ人が書いているようだ。書き手のモチベーションが落ちている> と知ったふうなことを語っている。何が言いたいのか私には理解できない。

 ごく当たり前のことを丁寧な日本語で退屈に表現できるだけの人、 というのが新城氏に対する私の印象である。 批評力がない(というか批評のイロハを知らない)というのが今回新たに加わった。

 新城氏は10年以上前に『おきなわキーワードコラムブック』 を県内で出した編集者として知られる。私はその本をもらって楽しく読んだ記憶がある。 ただ、地元の方言が若者に受けるということはそれ以前から私の脳の中では常識だった。

 私の古里徳島には『あわわ』という非常に有名な街雑誌があり、 20年ほど前から阿波弁講座という連載をよく載せていた。 私は友人たちと読みながらいつも大笑いしていたので、 うちなーぐちの単行本が出た時は『あわわ』 の連載記事の亜流が出たんだなと受け止めたに過ぎない。

 話を戻そう。 私がある分野を論評する場合、自分ができるかどうかを基準にする。 自分にできないことに対しては偉そうなことは言わない。 全くできない分野に関しては何も言わない。 自分を棚に上げていいのなら、新城氏のように、誰だって何とでも言える。

 <最近、地元紙にはハッとさせられることがなく>というのは、 単に新城氏に新聞を読む力がないだけである。 <刺激がない>って、新聞に刺激を求めるのはお門違いである。 <記事で沖縄の見方を変えられるようなことがない>というなら、 試しにあなたがお手本を示してみなさい。 <一人ひとりの記者の個性は違うはずなのに、記事はパターン化し、 全部同じ人が書いているようだ>は、ある意味当たり前で、 新城氏は新聞に何を求めているのだろうかと私は疑問に思う。 例えば交通事故の記事などは一定の形が決まっている。 新聞の最大の使命は報道であり、報道は事実を書くのである。 どの記者が書いても押さえるべき事実や要素は同じなのである。 <書き手のモチベーションが落ちている>に至っては、 新報の記者全員を知った上でこういうことを言っているんだろうかと私は問いただしたくなる。 以上、新報社の代わりに反論しておく。

 いい人選をしないと新報社が笑われる。 トンチンカンな発言をそのまま載せると、それがトンチンカンだと分かる人は発言者を笑えるけれど、 そうでない読者はチンチンカンを鵜呑みにする恐れがある。だから、 トンチンカンを載せてはいけない。編集権があるのだから、こういう時に行使しなさい。

 本土在住でも『新報』を読んでいるまともな人がいるはずで、 そういう人にこそ委員になってもらうべきである。沖縄在住にこだわる必要はない。 的外れの意見を載せて紙面を無駄にするくらいなら、本土在住(海外在住でもいい) のまともな人に登場してもらったほうが、はるかに紙価を上げるというものだ。 例えば元毎日新聞記者で日本での女性初の論説委員だった増田れい子さんは確か 『新報』をかつては購読していたぞ。新聞の役割や仕組みを知っていて、 自分を棚に上げない人でないと務まらないし、的を射た発言が期待できない。安易な人選を してはいけない。人選は取材と同じで、丹念にしなければならない。

 15日付朝刊の1面にはワシントンから森記者が新型低周波ソナーの特ダネを出している。 私は<ハッとさせられ>た。これでも新城氏は<ハッとさせられ>なかったかな?

 18日付朝刊の<金口木舌>には笑わせられた。

 <ピーンと張り詰めた雰囲気というのは、こういうことなのか。 国体で空手の形競技を観戦したときのことだ。切れ味鋭い手足の動き、 獣のような眼光。静寂を切り裂く気合。観客はもちろん、 間近にいる審査員も、まるでヘビににらまれたカエルのような状態だった>

 まず指摘しておきたいのは、表現があまりに陳腐である。 陳腐としか言いようがないくらい陳腐である。 陳腐のお手本と言っていいだろう。陳腐の総本山と言ってもいい。 陳腐を総動員したというべき文章である。 後世に残す価値のある陳腐さである。

 それに、そもそもこれは型の演舞であり、 直接打撃制の空手家からは「空手ダンス」とバカにされてきたものである。 そういう流れにある空手をここまで持ち上げるのは勉強不足である。 世の中を見れば、直接打撃制の格闘技が本流であることくらいすぐに分かりそうなものである。

 <このとき初めて、伝統からにじみ出る空手の奥深さ、底知れぬ迫力を感じた。 「すごい」と心底思った。沖縄の誇る空手が、 海外に広がり、外国人を魅了するのも納得がいく>

 わはははははははははははははははははははははははは。 笑いが止まらない。空手を世界に広めたのは、今はなき大山倍達である。 大山氏は直接打撃の空手を広めたのであり、「空手ダンス」を広めたのではない。 こういうことを知らずに自分一人で納得してしまう記者の顔が見た……くない。 空手の実情を知らない沖縄の人が「沖縄の空手はそんなにすごいのか」と勘違いしてしまう。 古里を愛するのいいことだが、これではひいきの引き倒しである。

 <空手専門誌によると、今や世界百五十余カ国、約六千万人の愛好家がいるとさえいわれる。 彼らの多くが望むのは、発祥地沖縄でじかに修行することだ>

 うそを書いてはいけない。 今日の空手人口に貢献したのは大山倍達である。 空手の本流は直接打撃制であり、「空手ダンス」ではない。 ところで、<彼らの多くが望む>と書いてあるけれど、 その根拠はあるのだろうか。 6000万人のうちせめて1000万人くらいには取材した、のかな。 発祥地沖縄でじかに修行(修行という単語は時代錯誤である) したいと思う外国人は非常に少ないと私は確信している。 その多くは極真会館などの有名な道場に行っている。

 19日付の5面に<インターンシップリポート>が載っている。 大学生が新報社で企業研修を受けた報告書である。 したがって、基本的に非常につまらない。十把一絡げの内容である。 こんなの載せるなよとさえ思ってしまう。

 ただ、早稲田大学の学生が書いた原稿には面白い部分があった。

 <「本土の人間は本土で闘うべきだ」との厳しい批判も受けた。 私は何も答えられず、まだ考えるべきことが山積みだとあらためて教わった>というのである。

 学生さん、そんなことは<考えるべき>ではない。

 誰の発言か分からないが、インターンシップを受けた新報社の人間だと思われるので、 その前提で書く。<本土の人間は本土で闘うべきだ> という表現からは時代錯誤や了見の狭さなどが垣間見える。 この発言をした人がどんな<闘い>をしているのか見てみたい。 いたいけな(?)学生相手にカッコをつけてみたとしか思えない。 右も左も分からない学生相手に、知ったふうなことを言ってはいけない。 全国紙の那覇支局記者たちに同じ発言ができるだろうか。 こういう阿呆をのさばらせている会社なのか。

 しかも、このご時世に沖縄と本土を分けて考えている了見の狭さというかケツの穴の小ささ (実際に見たわけではないが)に私はあきれ果てる。 こんな人間になってはいけないというお手本である。

 沖縄にはたまにこういうトンチンカンがいる。 もちろん歴史を振り返ればそう言いたくなる気持ちは分からないではない。 でも、もはや言ってはならない。ましてや公平と正義を追及するはずの記者であればなおさらである。

 21日付朝刊の<読者相談室から>は <読者の強い要望で匿名にしました>という釈明が載っている。 こういう特別扱いをしてはいけない。私が読む限り、 どうでもいいご意見である。原則を曲げてまで載せるほどのものではない。 没にすべきだった。読者相談室の担当記者の辞書には「筋を通す」の言葉が載っていないようだ。

 28日付朝刊の4面は沖縄タイムス社向けの広告である。 <当紙の部数はABCが確認しています><沖縄県内には県紙と言われる新聞社が2社あります。 そのなかで、新聞・雑誌部数調査機関である(社)日本ABC協会から部数を認証されているのは、 「琉球新報社」だけです>

 さらにタイムス社の自社公称部数に対して<根拠のない部数>と切り捨てた。

 素晴らしい!

 見出しに大きく<沖縄一の販売部数204704部>とうたった。

 しびれるぅ〜〜。

 でも、そこまで言うのなら、本当の部数を公表したほうがいいのではないだろうか。 確かにABCの調査を受けているのは新報社だけである。 しかし、販売店によっては残紙が数十部単位であったりするでしょ。 どこの新聞社にも言えることだが。

 タイムス社に対して胸を張る前に、本当の部数を出しなさい。

 この記事は年に1回くらい掲載されている。 見るたびにえげつなさと品性のなさを感じる。 部数を水増ししておいて、そのことには触れずに(当たり前か) 他紙をけなすのは品性下劣である。

 琉球大の病理組織無断使用問題で、 30日付朝刊社会面の頭記事<最悪の形で病名知る>は患者の家族から取材した話を載せている。 琉大医学部の教授と助手が患者に無断で病理組織を利用したことが、 患者にとってどれほどの精神的苦痛を与えているかがひしひしと伝わってくる。 これでも新城氏は<ハッとさせられ>なかったかな?

 以上で2003年の10月分はおしまい。2004年2月が迫っているってのにね。 (沖縄王・西野浩史)






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