『琉球新報』紙面批評・拡大版その4

 雑誌にせよ電気製品にせよ車にせよ、 消費者は競合する商品を見比べてから買う。 これが一般的な買い方だろう。しかし新聞は違う。 どんな記事が載るか分からないのに、 読者は購読の約束をする。そんな読者のために 価値の高い商品(新聞)を作るのは、民間企業である (でしかない)新聞社としては当然の商売行為(仕事)だと 私は思う。

 私の「紙面批評」は「手厳しい」そうである。しかし、 これまでの書き手が甘かったか批評の仕方を知らなかったか、 いずれにせよ批評の執筆者としてふさわしくなかっただけの 話だと思う。これは何も私が偉いのではない。新聞記者経験者 で一生懸命に批評しようと真面目に考える人なら、 誰にでも書けるというだけの話である。

 悔しいことに(ここに私の性格が出ているわけだが)、 この2週間(2003年1月9日付朝刊から23日付朝刊まで)の 『新報』紙面は商品価値が高かった。

 12日付1面の「在沖海兵隊の異動凍結」と 社会面の「分娩後に母子“急 死”」、22日付朝刊社会面の「公園上空19メートルにヘリ」、 23日付朝刊社会面の「誤診で17歳全身まひ」などなど、 『沖縄タイムス』に先んじた報道が相次いだ。中でも 「「公園上空19メートルにヘリ」はタイムス社のすぐ近くで 起きた事故だったにもかかわらず、『タイムス』は知らなかった ようだ。

 13日付朝刊社会面の「一部新成人が“暴走”」は、 若者が国際通りの車道を歩いて交通妨害をしている写真が 目を引いた。『タイムス』には写真はなかった。 この手の“お子さま”は「新聞に載った」とかえって周囲に 自慢する恐れはある。しかし、徒党を組まないと何もできない 幼児性が痛々しいほど伝わってくる写真なので、 掲載する価値は十分ある。などと偉そうなことを、14年前に 結婚披露宴を挙げたあと渋滞する国際通りを真っ赤な オープンカーで走った私が言っていいのかどうか 分からないが。

 『新報』米国駐在の森暢平記者は、 かつて毎日新聞福島支局で一緒に仕事をした友人である。 それだけに仲間褒めにならないよう、ほかの記事より厳しく見ているつもりだ。 と明言したうえで取り上げるのは、15日付 朝刊2面の「大学院大学 国際顧問会議を終えて」である。 丁寧な取材で理想と現実の溝の深さと会議の 雰囲気を具体的にすくい上げた。米国に駐在を置いたことで、この記事や冒頭に 挙げた「在沖海兵隊の異動凍結」など米国内での沖縄関連情報を、『新報』の読 者は他紙読者に先んじて詳しく得る機会が増えた(この部分がまどろっこしい表 現になっている理由は、 米国に記者のいない『タイムス』にたまにいい記事が載るからである)。『新 報』の商品価値を高めているのは間違いない。

 19日付社会面の「米軍機飛行で教官が 改善要求」は面白かった。大学入試センター試験中の 琉大上空を米軍機が数回低空飛行したということで 日本科学者会議沖縄支部の事務局長で琉大助手の 先生が緊急声明を出したという内容に加えて、 琉大入試課の<沖国大とも連絡を取り合っているが、 騒音に関する苦情は聞いていない>という指摘を載せた。 沖縄の受験生は騒音に慣れてしまったのか、それとも 緊急声明を出すほどのものではなかったのか。 いずれにせよ、落ち着いた報道だと思う。基地関連の 報道はこうありたい。

 一方で、商品価値を高めるために、 もうひと踏ん張りしてほしいと思う記事が ある。

 16日付朝刊社会面の「うどい」応援団の記事で、 電話番号を間違って掲載したのは、 校閲の方法に穴があることをあらためて露呈した。 不良品をなくすための最後の関門である校閲記者は、 電話帳と照らし合わせなかったのか。原稿の裏 付けを独自にとるのは校閲のイロハである。なお、 この記事にはもう1つ間違いがある。うどい経営者の妻が 「東京出身」とあるけれど、正しくは「静岡出身」 なのだ。さすがにこれは校閲記者でも裏付け確認のしようが ない。

 18日付朝刊社会面で「西山太吉元毎日新聞記者に聞く」という 記事が出た。西山さんはかつてつかんだ特ダネを当時の 社会党議員に渡して国会で政府に質問させた、と私は記憶している。この点につ いて西山さんはどう考えているのか 私は知りたかった。沖縄テレビが西山さんを 特集した際もこの点への言及はなかった。 必要以上に持ち上げているのではないかと 思わざるを得ない。西山さんを取材する記者は こうした経緯を知らないはずがない(よね?)。 相手の痛いところを突かないで「報道」と胸を張るな。

 14日付社説「『非戦の心』を国際世論に」 は<県民ぐるみで「非戦の心」を拡大して発信し続けよう>と 呼びかけた。具体的に何をどうやって<拡大>し、 どこに向けて<発信>すればいいのだろう。こ れを書いた“呼びかけ人”の論説記者自身が何かを 実行しているのであれば、それを書いてほしい。 そうすれば、中身の濃い、責任感漂う、説得力ある 社説になる。そろそろ、欠陥だらけの社説は 消えるべきだろう。旧態依然としたことを書くからますます 読まれなくなるのではないか。

 社説といえば16日付の「橋本大使発言」に関する 記述は従来通りの大雑把さだった。<復帰後も「基地の ない島」を求める県民>という部分がそれだ。 取材不足としか言いようがない。あるいは、理想と現実を 混同してしまっている。沖縄生活が合計で4年少々しかない 私が取材しただけでも、「基地は必要だ」という人に 何人も出会っている。こういう声はまだ多数を 占めるまでにはなっていないとは思う。でも、 こうした声を無視してはいけない。 沖縄は変わりつつあるのだから、“昔とったキネヅカ”で しかものごとを見ることができないなら、記者を辞めて 扇動家になったほうがいい。

 9日付朝刊社会面の「15自治体で統合教育」は 難しかった。特に<統合教育に詳しい 平田永哲琉大名誉教授は>で始まる1段落は、 何度読み返しても意味が分からなかった。 事実関係を省略し過ぎたせいだろう。むろん 私の頭が悪くなった可能性はあるけれどね(と本気で 思っているわけではない。あくまでも謙遜です)。

 20日付朝刊社会面の「訴因変更した業務上横領事件」は 興味深い内容である。中でも、具志川署の最初の担当刑事に 捜査を先送りされ、送検まで四年余りもかかった。もっと早く動いてくれたら、 特別背任で有罪にできたはずだ>という被害者の 談話に私は関心を抱く。にもかかわらず、この点を掘り下げず、 県警の<適正に捜査を進め、事件を検察庁に送付したものと認識している>とい う談話を掲載して、両論併記で締めくくってしまった。何じゃこれは。

 何じゃこれは、と思った記事がほかにもある。 20日付夕刊社会面の「貴乃花引退」の記事がそれである。 2つの記事の文末にそれぞれ「(玉井)」という 名前が載っている。誰だ玉井って? この記事を書いた通信社 記者の姓なのだろうが、必要だったのか。『タイムス』には 同じ記事が出ているが、玉井さんの名前は出ていない。 削ったのだろう。『タイムス』の判断が正しいと思う。 中途半端なことをせずに、載せるなら載せるで、 例えば「共同通信・玉井○○」と記したほうが読者には 親切だった。

 22日付朝刊社会面の「イラク訪問団帰沖」によると、 訪問団一行を米総領事館前で待ち受けたのは「約六十人」である。一方、『タイ ムス』は「約百人」とある。差が大きすぎる。 どちらが正しいのだろう。

 恒例の“校閲部激励”指摘をしておこう。 『新報』の原稿締め切り直後の夕刊で見〜つけた。 23日付夕刊2面の「食べ過ぎは本人の責任」の 最後の文章にこうある。<米マスコミは「批判的に 取り上げていた>。不必要なカギカッコ(「)が1つ あるでしょ。

 『新報』での「紙面批評」はあと2回でおしまいである。 寂しいなぁ。(沖縄王・西野浩史)






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