『琉球新報』紙面批評・拡大版その3

 米軍少佐による女性暴行未遂事件に関する11日付の社説 「米軍事件は超党派行動で」の中に、少し違和感を抱いた記述がある。 「米軍基地の現状が県民に過重な負担になっている点では、 県民の認識は一致している」という部分である。 ある一面を見ると確かに「過重な負担」だと私も思う。しかし、 米軍基地を積極的に認める人たちや米軍基地で 生活を成り立たせている人たちが一定数いるのは、 県内では常識である。この常識で社説を再読すると、「過重な負担」の大前 提である米軍基地の存在の是非について「県民の認識」が 一致していないことに対する論評を巧みに避けたと思わざるをえない。

 米軍基地に対する沖縄の“空気”の変化を、 発売中の『新潮45』1月号に私は書いている。 十数年ぶりに沖縄暮らしを再開して痛感したのは、米軍基地の存在を 積極的に肯定し、それを口に出す人が増えたのではないか ということだったからである。表向きは「反対」だが 本音は「賛成」という人さえいた。沖縄で暮らしている 記者がこうした本音を聞いたことがないとは思えない。 本当に本当に「県民の認識は一致している」のだろうか。 この視点で見ると、よく見聞する「県民感情」(例えば18日付社説)にも 疑問が浮かぶ。本当に本当に「県民感情」と一口にまとめることが できるのだろうか。

 もう少し具体的に言及しておこう。

 「過重な負担」を最も感じているのは基地周辺の住民だろう。 しかし、基地から離れれば離れるほど、「負担」の実感はなくなる。 基地訴訟などの報道を通じて、「大変なんだなぁ」と学習する程度 だったりする。

 基地内の仕事を請け負っている企業はいくつもあるし、 派遣会社から派遣されている人も含めたら、基地で 食べている人は1万人は軽く超えるだろう。基地で働くことに 誇りを抱いている人たちだっている。

 基地に土地を貸していることで地代を得ている人たちがいる。 「基地には反対です。でもお金はください」と本音を語ってくれた 人がいた。「過重な負担」という認識を真面目に持っていたら、 こういう言葉は出ないと私は思う。

 年間数百万単位で 地代を得ている人たちがいる。そういう人や一族は 基地のない市町村で豊かな暮らしをしていたりする。 そんな人たちが「過重な負担」と心から思っていると言えるだろうか。 常識的に考えれば、そして私が見聞する限りでは、「否」である。

 世論調査をすれば「過重な負担」が多くなるのは当たり前である。 それは、前述したように、実際に負担を感じている人のほか、 学習によって「過重な負担」を選んだほうがいいだろうと思い込んだ人が いるからである。

 つまり、「過重な負担」といっても、県民の中に濃淡が あるわけだ。濃淡があることを無視して「県民の認識は一致している」などと 断定的に十把一絡げに表現してしまうと、これは厳格な「事実」に基づくという より、「理念」に引っ張られたものでしかなくなる。米軍基地の存在に賛成でき ない 気持ちや立場は理解できるけれど、「報道」としては 行き過ぎだと私は思う。

 新聞が理念を語るのは大切なことである。しかし、まるで事実であるか のように語ってしまってはいけない。特に近年は基地に対する感情が 大きく変わってきている。世論調査や基地訴訟といった“事実”だけを 見ていると、多様化している「県民感情」が見えなくなってしまう。

 西原町の大型小売店「マックスバリュー」の駐車場で 現金輸送車からお金が盗まれた事件の記事が9日付夕刊社会面に載った。 店名はなく、「スーパー」としか書いていない。同じ紙面で、 1フィート運動の会による平和集会が「那覇市松尾の八汐荘で開かれ」たと 詳細に記述しているのに、なぜ店名を伏せたのだろうか。翌10日付朝刊は 「西原町小橋川」や「国道329号に近い」などと被害に遭った店を 特定できる情報を書き込んでいるから、 店を特定できないようにしているわけではなさそうである。 だったら出したほうがいい。「現場」を記していない事件原稿は、 ワタシのいない沖縄みたいなものである(何のこっちゃ)。

 注目した特ダネや記事を5つ挙げておく。1つは浦添市職員の わいせつ図画販売である。こういうものに全く興味のない男は少ない と思う(私は大好きである)ので、記事は一罰百戒に なっただろう。電子情報網(インターネット)の世界では 「わいせつ」画像を無数に見ることができるせいか、 世の中が「わいせつ」にマヒしているように思う。 しかし刑法175条は厳然と存在している。記事はそのことを知らしめた。

 2つ目は11日付朝刊社会面の「石垣市の文化財発掘調査 報告書未発刊6件 製 本費払い済みケースも」である。税金のずさんな使い方を 見事に掘り出した。

 3つ目は18日付「金口木舌」である。 実施中の検問情報をラジオの生番組で 放送していたことに対して疑問を投げかけた内容だ。 記者の問題意識がいい。番組担当者の「検問場所を教えることで飲酒運転 をやめて代行運転で帰る、ということもある」という苦しい釈明を 取材してある点もいい(それにしてもこの担当者は本気でこう考えて いるのだろうか)。誰が読んでも、「検問逃れにつながることを危惧する」や 「検問場所を教えるよりも、積極的に飲酒運転者を検挙させ、 お灸をすえる方が、より効果的な飲酒運転根絶の道ではないか」という 記者の見解が正しいと思うだろう。 飲酒運転が大手を振ってまかりとおる沖縄(全国の検挙者数の1割を 占める)だけに、これを端緒に論議を深めるきっかけにしてほしい。ただ、ラ ジオ局と番組の名前を具体的に書くべきだったと私は思う。 特に担当者の名前は知りたかった。

 実名を挙げることで、記事に緊張感と重みが加わる。 実名を隠せば相手からの反論などをかわすことができるわけで、 記者にとっては楽ちんである。しかし、記者であるならそういう対応が 好ましいとは思えない。逃げ道を確保した記事は、記者の自己保身でしかなく、 記者より聡明な読者はそれを見抜く。読者を甘くみてはいけない。 人権に配慮すべき事例は別として、 実名を挙げて熱く真剣勝負する記者であり記事であってほしい。

 4つ目。『沖縄タイムス』と比べて扱いがよかったのは6日付朝刊社会面の 函館港映画祭シナリオ大賞の記事である。受賞した 本部町出身の大見全さんを写真つきで大きく報じたのは、 県紙として的確である。

 5つ目。名護市出身でワシントン在住の「シンデレラ・ボーイ」こと 島庄寛さんの死亡は、ワシントン駐在の森暢平記者が特ダネとして報じ、 『タイムス』が追いかけた。さすがにツボを押さえている。

 最後は恒例(?)のおまけである。11日付社会面の 「しんぽう出前記者」の記事で「5W1H」の「W」が小文字になっていた。 これは、校閲記者にはちょっと難しかったかな。(沖縄王・ 西野浩史)






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