『週刊金曜日』の独善と思い上がり
「裸の王様」を検証する


 キムヘギョンさんの報道に対する批判が出た際、 迂闊に同じことをしたら批判されるということを マスコミは学んだと思う。それなのに、 『週刊金曜日』がノってしまった。 「やっぱりね」という声が聞こえてくる。色眼鏡で見られる点が この雑誌の抱える限界である。事実、私の友人は 「言っちゃぁ悪いけど、色眼鏡で見られるのが週刊金曜日の 悲しいところ。まぁ、週刊金曜日だから北寄りの記事も書くわなぁ、 みたいな」とメールを寄越した。

 かつて創刊から4年近く在籍し、 沖縄で開催された読者会に出席したことがあり、 『新潮45』2000年12月号で「私が見た反権力雑誌『週刊金曜日』の 悲惨な内幕」を書いたことがあり、 本土の本屋には今週並ぶ『週刊新潮』に短く論評したことがある 私には、この場で明確な論評をしておく義務が あるように思う。沖縄王では沖縄の楽しい話題を 書きたいのだけれど、今回だけ見逃してください。 (沖縄王・西野浩史)

 編集主幹の黒川宣之さんが記者会見する様子を テレビで見た。懐かしい顔を久しぶりに見て、お元気そうで よかったと思った。この人は、朝日新聞社で 論説副主幹をしていた。経済畑が専門と聞く。 朝日を定年退職後、先に退職していた本多勝一さんたちに 誘われて株式会社金曜日に入社した 経歴の持ち主である。

 記者会見に黒川さんが出たのは大失敗だった。 謝罪しない人を登場させたら、ああなる。 黒川会見は同誌への反発を生んだだけだった。 記者会見の場が唯一の謝罪の場だったのに、 それを生かせなかったばかりか、同誌に対して 悪い印象をばらまいてしまった。

 阪神大震災が起きた直後の編集部会で「犬やネコが かわいそうだから助けよう」とかいう企画が出たことがある。 私は即座に「今取り上げるべきなのは犬やネコの話ではない。 人間が先でしょう」と反対意見を出した。すると黒川さんは こう言った。「だったら、いつ載せれば いいんだね」。それを考えるのが編集長代理 (当時)である黒川さんの仕事である。そう言いたかったのだが、 余計な摩擦を避けるため「落ち着いてからでしょう」などと 答えた。黒川さんはそういう人なのである。

 ところで、「編集主幹」という肩書きは 私の在籍当時にはなかった。人数の少ない会社の割には、 肩書きに関して屋上屋を重ねるのが好きな傾向がある。 幹部たちの多くが朝日新聞社の退職組だから、朝日新聞社の “伝統”なのかもしれない。黒川さんは朝日時代は「副主幹」だったが、金曜日 では「主幹」になったわけである。簡単に「社長」と 名乗ればいいと思うのだが。こんな肩書きを作るから、 私の友人は「編集主幹と編集長とどっちが偉いんだ?」とメールを 送ってきた。肩書きを見るたびに、 会社ごっこをしているようで、ほほえましい。なお、 金曜日では編集長よりも編集主幹のほうが偉いことに なっている。

 14日に私が確認したのは、NHKの「ニュース7」と 「ニュース10」、テレビ朝日「ニュースステーション」、 TBSの「筑紫哲也ニュース23」である。

 最も詳しく報じたのは「ニュースステーション」だった。 黒川さんの弁明と記者の追及をけっこう長く放送した。 その次が「ニュース10」だった。どの報道番組も 「週刊金曜日」と名前を挙げていたので、金曜日にとっては 非常によくない“宣伝”効果があったと私は推測する。 どう贔屓目に見ても、黒川さんの会見が大勢の理解や共感を 得るとは思えなかったからだ。

 黒川さんは「被害者本人が自分の意思で判断できる材料を 提供するのが我々の務め」と語った(毎日新聞電子版)。 これは間違っている。家族を北朝鮮に残してきた当事者たちが 「自分の意思」の及ばない「国家間の問題」になったことを 認識し、耐えているのだ。このことを理解していれば、 「判断できる材料を提供するのが我々の務め」という 釈明がいかに独善であり思い上がりであるかが分かる。

 黒川さんは「曽我さんは家族の情報を知りたがっており、 それを伝えることはジャーナリストの責務」と語った (朝日新聞電子版)。「ジャーナリズムとして正しいことを したと信じている」とも語った(読売新聞電子版)。 これらも間違っている。その理由の第1は、 曽我さん本人が怒っているのだから、 この釈明自体が成り立たない。第2は、 金曜日側が「ジャーナリスト」「ジャーナリズム」と いくら気負っても、当事者である家族会の 蓮池透事務局長の「国家間で話し合う問題になっているのに、 1マスコミが出過ぎたことだ」という指摘にはかなわない。 むしろ「ジャーナリズム」という単語を振り回せば振り回すほど、 「ジャーナリズムを名乗れば何をしてもいいのか」「ジャーナリストとは 何様なのか」と問われる。

 黒川さんの発言を聞く限り、時代の流れを 読み損ねていると思う。教師がいい例だろう。 戦前は師範学校卒業の限られた人たちが 文字通り「先生」として敬われてきた。しかし、 大卒や教員資格を持つ人が増えたこんにちでは、 教師だからといって尊敬されることはない。ジャーナリストや ジャーナリズムも同じである。黒川さんが朝日新聞の記者を していた時代は、言論(ジャーナリズム)の持つ力は 今よりは大きかった。こんにちのようなさまざまな メディアはなかったから、相対的に高い地位を保つことができ、 それなりに信頼を得ていた。今は、かつてのような地位はない。 重要な指摘をしておくと、読者のほうが記者より知識も 見識もあったりする。こうした変化を把握しないで「ジャーナリズム」を振り回 すと、時代錯誤にしか思われないし、「キミは何様なんだ」と 不思議がられるのである。

 「ジャーナリズム」という言葉の持つ重みが 世間一般で通用しなくなってきたのは、 今回のような記事や報道をマスコミが垂れ流しては 開き直ってきたからだと思う。人間を扱いながら、 人の心に寄り添わない言動をしてきたからだと思う。 「特ダネ」という自己陶酔と自画自賛のもとに 人の不幸を考慮しない“ジャーナリスト”を 世間は見抜いているからだと思う。報道被害などを 課題にしてきた『週刊金曜日』も同じだった。 だから反発が起きているのである。

 警察庁指定118号事件(連続殺人事件)を知り合いの 記者に書いてもらい、その中で被告の死刑を主張したことがある。 私が編集担当だった。あとにも先にも『週刊金曜日』で死刑を主張したのはこの 記事だけだと思う。毎日新聞福島支局に 私がいた頃、この事件の取材をしたことがある。 残酷な殺害方法だった。残されたご家族の落胆の様子を 私は目の当たりにした。当事者の気持ちをさておいて 「死刑反対」とは言えないし言う資格も立場もない。 出過ぎたことはできない。だから、死刑の主張は 実に正しいと思っている。しかし、黒川さんは 3回ほど私の担当記事を批判した。当事者の気持ちを 棚に上げ、当事者でない人が「死刑反対」を主張していい のだろうか。当事者でない自分に発言権がどれだけ 与えられているかを考える癖をつける必要がある。

 黒川さんは記事の是非について「家族が判断すること」と しゃっべっていた。前述した通り、曽我さんは怒っているのだから、 記事の拠って立つ場が崩壊したことになる。第3者の立場に ありながら「ジャーナリズムの務め」などと立派なことが言えるための大前提と して、当事者に拠って立つことが欠かせないと私は思う。 あるいは、拠って立つ場がない場合は読者や視聴者の共感を 得られるものでないといけないと思う。『週刊金曜日』は 北朝鮮以外からの共感を得ただろうか。北朝鮮以外で この記事を喜んだ人がいるだろうか。

 同誌副編集長で北朝鮮取材をしてきた伊田浩之さんが 曽我さん宅を訪ねて「記事以外の ことも知っているので、もし聞きたければ連絡をください」と 言った(読売新聞電子版)のは、曽我さんの心境を 軽んじた発言だと指摘せざるを得ない。曽我さんの つらい状況を真面目に真剣に考えれば、 神経を逆なですることになるこのような発言はできない。 稚拙である。黒川さんがどれだけ「ジャーナリズムとして正しいことを したと信じている」と語っても、共感の輪は広がるまい。 『週刊金曜日』や伊田さんが「大スクープ」と思っても、 「北のお先棒を担ぐ」結果になってしまった。

 筑紫さんは「ニュース23」の中の「多事争論」でこの金曜日問題を 取り上げ、「永遠のジレンマ」と題して「国の方針に水を差すような 報道、取材はすべきではないという議論になると、報道や言論は 死んでしまい、私たちも北朝鮮と変わらない国になってしまう」と 語った(毎日新聞電子版)。これは問題のすり替えである。 そもそも、「国の方針に水を差すような 報道、取材はすべきではないという議論にな」っていないのだ。 また、北朝鮮を例に挙げて言論統制への不安感を 煽ろうとしているけれど、 北朝鮮が「国家による永久の言論統制」をしているのに対して、 今回の問題は「微妙な情勢だから一時的に自粛してほしい」と 言っているに過ぎない。根本的に異なるものを混同した。 さらに、ジャーナリストとしてキャスターとして非常に まずい行為を筑紫さんはした。 同誌の編集委員を筑紫さんがしていることを 明確に説明せずに同誌の擁護をしたのである。 この問題に関して筑紫さんは公平な立場にいない。 したがって発言する前に、明確に「この雑誌の 編集委員を私は創刊以来している」ことを述べる必要があった。 同誌問題の当事者だという認識があまりにもなさすぎる。

 部数は4万部と毎日新聞などのサイトに出ていた。 ずいぶんさばを読んだ数字である。虚偽と言っても いいだろう。私の知る限り、『週刊金曜日』はこういう ことにはうそをつかない雑誌だった。いつの間にか 変容してしまったようだ。

 ところで、同誌の記事には間違いがあると 指摘されている。日垣隆さんは有料メルマガで(私は購読者です)、 裏付けをとらないまま記事にした点を批判している。

 さて、結論というかまとめです。 当事者がじっと我慢して、 国家同士が神経戦をやっているところに ノコノコと無神経に出てきたのが『週刊金曜日』だった。 記事の正当性を主張した根拠の「ジャーナリズム」を 支持したのは北朝鮮当局だった。結果的に、同誌が 本来守るべき人たちの理解を得られず、 敵に回してしまった。この事実に対しては謙虚にならねば ならないのに、記者会見で開き直った。確かに昔から独善的な 体質だった。このDNAは不幸にも健在である。

 同誌の編集委員も社員も外に出て、 空気をじっくり感じてみる必要がある。 日垣隆さんは、同誌は遠からず滅びると 予言している。私もこの問題を知ってすぐに「金曜日は つぶれる」と思った。ほかの報道機関が同じことをやっても大目に 見られたりするのだが、同誌の読者は独特の人権意識を 持っており、同誌に対してはそれを許さないからである。 だから、つぶれる。この記事が引き金になると私は思う。

 『新潮45』2000年12月号で書いた 「私が見た反権力雑誌『週刊金曜日』の悲惨な内幕」の 最後を、こうしめくくった。<「真のジャーナリズム」という 言葉を臆面もなく使える神経と、自身が「真の ジャーナリズム」だと信じて疑わない“大本営的体質” こそ、定期購読以外の大多数の人々の心に本多氏らの 言葉が届かない最大の原因だが、彼らが理解することは 永遠にあるまい。これを「裸の王様」と言わずして 何というのだろう>

 今も色あせない指摘だと私は思う。






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