「三味線のプレスリー」川門正彦さん
三線に惚れ抜いた三線の伝道者ここにあり


 「八重山では『節』を『ブス』と言うんです。 『デンサー節』は『デンサーブス』になる」と説明して、 「舟もデンサー、声もデンサー、何もデンサー」と歌い、 お客さんの笑いを誘う。大阪風のボケ味の語り口で 距離を詰めたかと思ったら、ベンチャーズを思わせる指使いで 三線を鳴らして圧倒する。さらに三線をベース風に 用いて、ジャズベーシストのソロ演奏の雰囲気を見せつける。 どんな歌でも川門風に変え、情感を込めて歌う。盛りだくさんの 舞台を披露してくれる川門正彦さん(35歳)の素顔に迫った。

 1967年8月3日に石垣島の登野城で生まれ、 三線の音に囲まれた環境で育った。というのは、 漁師である父親の敏男さんは毎朝5時ごろに古典を1曲必ず歌ってから 海に出ていたのだった。黒砂糖をひとかけら口に運び、 さんぴん茶を飲んでノドを潤し、歌うのである。 漁に出ない朝も敏男さんの歌う古典が聞こえてくる。 川門さんはそれを聞いて朝が来たことを知る。そんな環境で育った。

 敏男さんは当時から三線教室を開いていたので、 夕方になれば生徒たちと弾いていた。 漁のない日は一日中三線の音が家の中を泳いでいる状態である。

 川門さんが今でも覚えている光景がある。 幼稚園の入園にあたって、自宅でお祝いしてもらった時のことだ。 敏男さんの膝の上に座って、三線を5〜6曲弾いた。 「曲をどうやって覚えたのか分からないのですが、 好きでも嫌いでもないうちに三線を弾いていました」

 父母からは「三線を弾くとバカになるから」と言われた。母親は琴の先生をしていた。 両親そろって弦楽器を弾くことができるだけに、「弾く面白さを知ってしまうと 勉強をしなくなることを親は心配したようです。おかげさまで 勉強しませんでしたね」

 小学2年の後半から、三線から離れた時期がある。 友人たちが西城秀樹や沢田研二、ピンクレディといった歌謡曲や ロックなどに熱を上げていた時期である。友人たちが歌謡曲の話をすれば川門さんはそれに 合わせた。しかし、川門さんが三線のことを友人に話しても、古臭いと言われるだけで、 誰も乗ってきてくれない。三線を一時離れざるを得なかった。

 しかし、内心では三線のことばかり考えていた。 「小学2年の頃の友人には『当時、授業中ずっと 三線の絵ばかり描いていたよな』と言われます。 確かに、将来は民謡歌手になるんだと夢見ていました」

 敏男さんが弾き歌うのを盗み聞きしたり、 敏男さんが漁に出ている間に父親の三線に触れたりしていたので、 自分の知らないうちにいつの間にか力がついていた。 そのことに気づいたのは父親だった。

ある日、川門さんが弾くのを聞いた敏男さんが 声をかけてきた。「いつ覚えた?」「聞いて覚えた」。 敏男さんは何も言わなかった。

 小学4年の誕生日の前日、敏男さんに言われた。 「あしたは学校から早く帰っておいで」

 敏男さんに連れて行かれたのは三線の店だった。 店主が店の奥から「はい、これよ」と持ってきたのは、 子供用に作った三線だった。「あんたのお父さんが来て、 小さいのを作ってって言われたから作ったんだよ。頑張ってね」

 この時のことを思い出して、川門さんは 「うれしくてね」と声を弾ませた。

 敏男さんは「これはお前のだからな」としか 言わなかった。離れていた三線に戻った川門さんは 毎日練習をするようになった。

 その三線の竿の頭の部分に2つ穴が開いている。 中学時代に川門さんがドリルで開けたのだ。 当時ロカビリなどが流行していた。 「三味線でプレスリーになるんだ」「おれは民謡界 のプレスリーだ」などと自分を鼓舞し、 かっこよくなるかなと思い、穴を開けた。ドクロの目の つもりだった。狙いどおり、三線の外観の雰囲気は変わった。 三線の音が変わらなかったのは不幸中の幸いだった。

 「今はすごく後悔しています」と顧みる。 この三線は敏男さんには見せられなかった。

 中学時代から、おじの南伸一さんが運営する劇団で舞台に 立つようになっていた。人前で演奏するのは恥ずかしかったけれど、 拍手をもらうとうれしい。

 このころ、ギターとベースを独学した。自宅にあった姉のフォークギターを手に、 本でコードを見ながら音を探した。基本になるCコードから始めた。

 三線が真ん中の音だとしたら、 ギターは高い音になる。「もっと重い音が欲しい」と思った。 そこで目に付けたのがベースだ。ボッパーズの音楽を聴き、 衝撃を受け、低音が響くベースを学ぼうと決めたのだ。ベースは買った。

 「古典に新しいものを取り入れようという考えは 常にありました。新しい歌をつくらないと、世に出られないと思ったんです。古いものは すでに大勢の人がやっていましたし。ロカビリを三味線でできるのではと思ったんですが、 やってみると難しい。ギターは音が伸びますが、三味線は短音なんです。この差を どう埋めるかが課題でした。僕の年代では三味線をやっている人は少なかった。 だから、三味線でカッコいいことをしようとずっと思ってきたんです。 そうすれば、ほかの人も三味線を好きになってくれるだろうって」

 しかし、当時は沖縄があらゆる面でのヤマト化を目指した時代だった。 南さんから「いつか時代が来るから、古いのをやっておきなさい」と 言われても、そんな時代が来るのだろうか、いつになったら民謡が受け入れられるのだろうか、 と疑問に思った。

 その後、沖縄民謡の上原正吉さんに弟子入りしたり、三線早弾き大会で優勝したり、 「あやめバンド」にリードギターとして参加したりする。1994年に兵庫県尼崎市の 民謡クラブ「島唄」に出演するために引っ越した1ヵ月後、阪神大震災に遭う。

 ちょうどそのとき車を運転していた。車が揺れる。突風かと思った。道路脇に駐車したところ、 目の前に止まっている車が壁にぶつかりながら道路に出てくるのが見えた。驚いて車を動かす。 ラジオをつけてみたが、何も聞こえない。

 窓ガラスのワイパーに何かがある。ワイパーを動かしてみた。 ガラスの破片だった。建物のガラスが割れて降り落ちてきたらしい。 これは危ない。慌てて国道2号に出る。電気や信号はほとんど 消えている。しかし、見渡す限り真っ白い。ほこりが舞い上がっていたようだとあとで知る。 ローソンの店内を見ると、商品が崩れているのが見えた。ここで初めて 地震だと気づいた。

 自宅に戻った。部屋は無事だった。しかし、寝床にタンスが倒れていた。

部屋の東側と西側に置いていたタンスや置物は ことごとく倒れていた。北や南に置いていたテレビやグラス、茶碗などは ほとんど動いていないのに気づいた。

 神戸市に住む友人が気になる。電話をかけてもつながらないのだ。 しかし、自宅も無傷ではない。ガスが出ない。水も出ない。 周囲の道路は大雨が降ったように水浸しだった。水道管が破裂していたのかもしれない。 1日待って、カップラーメンを2箱買い込んで神戸に向かった。

 友人は無事だった。しかし、大きな被害を目の前で見てしまうと、 自分だけ尼崎に帰るのは失礼だと思わざるを得なかった。被災者の中には 沖縄出身の人たちもいた。

 自分にできることは三線を弾くことだ。しかし、この状況で弾いていいのだろうか。 被災した人が受け入れてくれるだろうか。弾くのが怖い。そんな思いを抱えながら、 避難所になっている場所にひょいと出かけて三線を弾くようになった。 唄は「汗水節」や「てぃんさぐぬ花」、「兄弟小節」などに厳選した。

 「何で歌うのか」と怒られたことがある。しかし、喜んでくれる人のほうがはるかに多かった。 沖縄出身の人が寄ってきて「あっちでも弾いて」と 求められたこともある。「あんたの唄をここで聞かせてあげて。人は集めるから」と言ったおばちゃんは 実際に大きな建物に人を集めた。

 忘れられないできごとがある。 70歳前後のおばあさんが「ありがとうねー」と抱きついてきたのだ。 「落ち込んでいる時に島の唄を聴いて、すごく安心した。もういつ死んでもいいよ」

 この光景を語りながら、川門さんの目はうっすらと濡れてきた。

 1年近く続けるうちに、人間の恐ろしさを見た。 「どうにでもなれ」と自暴自棄になる人を見た。「オレらはどうせ死ぬんや」と 言って包丁を振り回す人も見た。「年寄りは早く死ぬんだから、 飯を食わなくていい」と言う人も見た。

 「この1年の間に、生きることへのすごい勇気をもらったんです」。 被災者からもらった勇気を、今度は被災者にお返ししたい。 そんな気持ちから「チバリヨー」が生まれた。

 2000年に石垣島に戻った。兄や姉に薦められ、民謡ライブハウス「アイランドライブ琉歌」を 構える。バンド「シンカ」(仲間という意味)を結成し、音楽の幅を広げた。

 「三味線を1人でも多くの人に聴いてもらって、1人でも多くの人が 三味線好きになってもらいたい、1人でも多くの人に三味線を手にしてもらいたい」 「三味線は民謡をするための楽器だと考えられています。でも、 ほかの楽器と同じなんだよということを伝えたい」

 “大御所”と言われる人たちからは「川門の三味線は……」と 言われることがある。「でも、三味線をひとつの型にはめるほうが間違っていると 思うんです。三味線は人間が作ったものですから、 型を守る人がいるなら、独自の世界をつくってそれを守る人がいてもいいはずです」

 三線に惚れ抜いた男の信念は強い。  (文=沖縄王・西野浩史、写真=沖縄王・BEEN仲栄真、西野浩史)


アイランドライブ琉歌
住所:石垣市大川264
電話:0980−83−6788
ファクス:0980−82−8100
営業時間:午後7時から午前2時
定休日:不定休。事前に問い合わせを

ホームページ
http://www6.ocn.ne.jp/~kawajo/

右写真は、アルバム「チバリヨー」ジャケット。
この写真をクリックすることで、アルバムタイトル曲「チバリヨー」の一部を試聴できます。 (MP3 / 80kbps / 291KB / 約50秒)






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