変酋長日記 〜2003年1月〜6月のバックナンバー〜
 

『天皇家の財布』(2003年6月21日)
 『琉球新報』ワシントン駐在記者・森暢平氏執筆の 『天皇家の財布』(新潮新書)が送られてきた。
 裏表紙を見ると、真面目な顔をした著者近影が載っている。 実物以上によく写っている。写真家の腕の賜物だろう。
 この本は、皇居の1カ月分の水道代や宮中晩餐会に出るケーキの値段などなど、 天皇家の“家計簿”を追ったものだ。これまで門外不出だった部分に 光を当てた。目のつけどころがいい。
 かつて毎日新聞社で一緒に働いた仲間だから褒めているのではない。 そうでなくても、この新書を私は買ったと思う。わざわざ送ってくれた 森さんに感謝しながら、じっくり読もうと思う。
 これに比べて(比べる必要も必然性もないのだが)、 私が300枚以上書いて編集者にとっくの昔に渡した「沖縄暮らし」の原稿は 未だに本になっていない(涙)。

沖縄の海と湘南の海(2003年6月6日)
 “出張先”の神奈川県平塚市から、茅ヶ崎→藤沢→鎌倉→逗子→葉山と 車で走ってみた。海沿いの道路なのだが、「この景色はいいなぁ。じっくり眺めてみたい」 と思っても、すぐに停めることのできる場所がない。
 たまに県営駐車場があるけれど、お金がかかる。しかも、よく見ると、 場所によって料金が違う。
 湘南の海沿いには空き地がない。北谷町のジャスコのような、大規模な 無料駐車場つきの商業施設もない。 湘南の海に車で来た場合、走り抜けるか、お金を払って県営駐車場に 停めるしかないのだ。
 この道路の混雑ぶりを見て、 「沖縄なら、海の近くで駐車できる場所はいくらでもある。沖縄はそういう環境に 恵まれているんだなぁ」と思い至った。もちろん沖縄に限らない。 私の古里・徳島だって、たぶん佐賀県だって恐らく秋田県だって、海のそばに車を 停めるのは朝飯前だろう。
 ようやく停めたのは稲村ガ崎の県営駐車場だ。ここは1時間300円と安い料金設定である。 背後から夕陽を浴びる江ノ島を見て、心を開放する。
 ふと空を見上げると、飛行機雲が残っている。この空路なら、 沖縄に向かった飛行機かもしれない。海も空も沖縄につながっている(←当たり前。 ブラジルやイラクにだってつながっている)。沖縄はきっとこの方向にある んだろうなぁと水平線を見つめた39歳のココロはまだまだ熱い。

『メイン・テーマ』を観る(2003年5月30日)
 薬師丸ひろ子主演の映画『メイン・テーマ』をビデオで観た。 全編を通して見るのはこれが初めてである。
 「駄作」という言葉以外に感想が浮かばない。
 1984年の作品だから、この20年の歳月で色あせたと 好意的に考えようとしてみた。しかし、何十年経っても 名作の地位を維持している映画があるのだ。 駄作は20年前も20年後も駄作でしかない。

沖縄王を検索してみた(2003年5月21日)
 「沖縄王」の文字で電脳情報網の世界を検索してみた。 <桂高校の沖縄修学旅行のぺージ>が目についた。 2002年12月に沖縄に修学旅行に来た高校生が作ったようだ。
 <沖縄に関するリンク集>として60挙げており、この中に 沖縄王を紹介している。推薦した生徒4人の名前も載せている。 4人とも女子である。どうでもいいことだが。
 正式名称は「インターネットタウンマガジン沖縄王」なのだが、 ここでは「インターネットマガジン沖縄王」と記されている。 相手は女子高生なので許す。むしろ、 「インターネットタウンマガジン沖縄王」はやはり長いなぁと 思ってしまった。
 一方で、予想通り、私を“批判”しているやつもあった。 まともな批判なら、面白い論戦に発展するのになぁ。 いずれ“紹介”したい。

沖縄の風俗(2003年5月12日)
 「沖縄に風俗の取材に行くのですが、 何か教えていただけないかと思いまして」という電話が 私の携帯にかかってきた。かけてきたのは「パラダイステレビ」と名乗った。 そう。スカイパーフェクTVと電脳情報網(インターネット)でエッチ系の番組を 流している局である。
 ここでいう「沖縄の風俗」は「沖縄の民俗」という意味ではない。 「沖縄のセックス産業」のことである。残念ながらその方面はあまり詳しくない。 そりゃまぁたまには沖縄市の裏道や宜野湾市の真栄原界隈を視察したし、 私が「芭蕉布」を覚えたのは沖縄市の売春街ではあったけれど、 詳しいと胸を張るほどの知識も経験もない。
 そこで、その道に詳しい沖縄在住の友人を紹介することにした。 蛇の道は蛇なのである。というわけで、あとはお願いね、太郎さん。

単なる不勉強(2003年4月30日)
 国仲涼子ちゃんのCD『琉球ムーン』を買った。
 涼子ちゃんはしっかり歌っている。 いい声だなぁ。私はメロメロである。
 ただ、歌詞の一部がどうにもこうにも引っかかる。 問題の部分は<名も知らぬ島の人達は>と<名もない唄>だ。
 <名も知らぬ島の人達は今日も名もない唄をうたってる>と 断言しているからには、こういう光景を見たということである。 そうすると、おかしなことになるのだ。
 人が住んでいる島だから島の名前はあるはずなのに、 それを<名も知らぬ島>とはどういうことだ。 「この島の名前は何というんですか」と聞けばいいし、 行き先の島の名前を知らないで島に渡るかね。
 <名もない唄>というのも怪しい。唄には名前があるのが 普通である。万一正式名称がなくても通称くらいはあるだろう。 「その唄は何という名前なんですか」と聞いたのか。
 その昔、<名も知らぬ>という表現を使った人がいる。島崎藤村である。 <名も知らぬ遠き島より>で始まる詩「椰子の実」を 発表したのは1900(明治33)年だった。これに曲がついて 「椰子の実の詩」が発表され、国民的な歌になった のは36(昭和11)年である。
 藤村の詩は<名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ>という。 もし名前を聞いたとしても私は知らないであろうそんな遠くの島から椰子の実が 流れ着いた、という意味だから、これは問題ない。
 しかし、『琉球ムーン』の歌詞はかなり苦しい。そもそも 「琉球ムーン」って何じゃらほい。
 わが涼子ちゃんには何の落ち度もないことを 最後に強調しておく。

平塚市で聴く沖縄音楽(2003年4月29日)
 神奈川県平塚市の総合公園にある野外舞台で「沖縄音楽」の演奏会が あると知り、出かけてみた。
 「関東沖縄民謡研究会登川流平塚支部」と 紹介された人たちが、おそろいのかりゆし服を着て、三線や三板を持っての 登場である。「19の春」や「ハイサイおじさん」といった一般的なものから 民謡までを元気に歌いだす。客席からは指笛が飛ぶ。
 大人14人のうち、初老の男性がまとめ役のようだ。周囲の状況を無視した ざっくばらんな話し方は沖縄仕込みに違いない。この人が言う。 「ここにいる中で沖縄出身は私と島袋君だけで、あとはみんな こっちの人です。沖縄旅行を通じて沖縄を好きになって、沖縄の楽器を 学びたいということで練習しています」
 14人の大半が若者である。若い世代が自発的に加わる状況が続く限り、 どんな形にせよ文化は継承されてゆく。

平塚市長選(2003年4月27日)
 私の“出張”先である神奈川県平塚市で市長選の投開票が行われ、 市議を4期務めた大蔵律子さんが 現職市長を破って初当選した。選挙の告示日、大蔵さんの出陣式で 僭越ながら私は応援のあいさつをしたので、 この日は午後8時半ごろから選挙事務所に詰めた。
 NHKは三脚を事務所に置いてあるものの、誰もいない。 たぶん対戦相手の事務所に行っていたのだろう。 大蔵さんが当選確実らしいといううわさが広まった直後、 NHKは慌てて戻ってきた。しかしNHKの三脚の前に朝日新聞横浜支局の写真記者が 脚立を置き、その上に陣取っている。NHKの撮影担当者は「三脚を置いていたのに」と やんわり抗議していたけれど、三脚を置いたから場所を確保したと考えるのは甘すぎる。
 閑話休題。
 帰り道、“まさかの落選”をした側の選挙事務所前を通った。集まっている人の数は 大蔵さん側より多い。振り返れば、告示日の出陣式に 大蔵さん側に集まった人は多めに見ても100人前後だった。 対戦側は1000人を超える人が集まったと報じられていた。 “組織”面では対戦相手がはるかに上だったわけだ。 にもかかわらず“組織”は選挙で通用しなかった。
 平塚市はこれから変わってゆく。

 補記。大蔵さんは鹿児島の出身である。一方、現職市長は地元・平塚の出身だった。 地元の出身でない人を首長に選ぶ事例が沖縄県内の選挙で出てきたら、 その自治体の有権者は成熟したと言えるだろう。

国仲涼子ちゃんの訛(2003年4月26日)
 ラジオをつけたら、FMヨコハマで「琉球ムーン」が流れてきた。 わが(ってことはないけど)国仲涼子ちゃんの歌である。 惚れ惚れしながら聞いていると、音が小さくなっていって、 代わりに涼子ちゃんの声が聞こえてきた。 生放送に出演中らしい。慌てて音量を上げる。
 ラジオの生番組に出るのはこれが初めてだそうで、道理で しゃべりは達者でない。もともと話すのは上手でないのかもしれないが、 そういう面がまたかわいいのである。こうなったらアバタもエクボ、 恋は盲目、西野は男前、何でもありなのである。
   沖縄の訛が残る話し方に私は好感を抱いた。私自身、ふるさと徳島の訛が 残っている、というか守っている、というか抜くことができない。 ドーテの小説「最後の授業」ではないけれど、生まれ育った古里の言葉は大切である。
 涼子ちゃんの言葉に訛がある限り、僭越ながら私は応援しようと思う。

不気味な経験(2003年4月21日)
 沖縄からの“出張先”である神奈川県平塚市の自宅マンションで、 物理的にありえない光景を見てしまった。
 この日は午前5時10分に横になった。 目を閉じていたら、すぐ隣の部屋でパチッと音がした。 聞き慣れた音だ。その部屋の電灯にぶら下がる金属製のヒモの音だと すぐに分かった。電灯をつけたり消したりする時に出る音である。
 そんな音がどうしてこんな時間にするのだろう。目を開け、 電灯を見た。
 私が寝ているところから電灯までは3メートルくらいしか 離れていない。
 外はうっすらと明るくなっているので、 部屋の中もうす明るくなってきている。
 そんな状況で私の目がはっきりとらえたのは、不思議としか言いようのない光景だった。 電灯がゆっくりゆっくり揺れているのである。
 地震かなと一瞬考えた。しかし揺れていない。その隣にある別の電灯は まったく動いていない。
 揺れる電灯を私は寝床から眺め続けた。あっけにとられながら。 しばらくすると揺れが止まる。
 ぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ。ここで初めて恐怖心がわいてきた。見なかったことに するわけにはいかない。
 勇気を奮い立たせ、「この野郎め」と意味不明の気合を入れながら起き上がり、 窓を開け、その電灯をつけた。電灯は完全に止まっている。何でこれがさっき揺れていたのか。 背筋が震える。時計は午前5時30分を指している。
 物理的にありえない光景を明確に見たのはこれが初めてである。 私の周囲では霊を見る人が何人かいるので、 そういう世界があるかもしれないとは思ってきた。ただ、 私は見たことがなかったので半信半疑ではあった。
 そういう意味で、私のこの経験は、「半信半疑」でしか 受け止められないのだろう。しかし、私は見た。
 周囲にいるかもしれないと思い、私は声をかけた。 「ごめんなさい。私はあなたの役に立てそうにないので、 ほかを当たってください。私は何もできません」
 聞こえたかな? 聞こえたとしても返事はいらんよ。

忘れられた島?(2003年4月16日)
 正午前にテレビをつけてNHKを見た。正午のニュースの前は、天気予報をする。 この番組の終盤では、日本の地図の上に午前11時台の各地の気温を並べる。それを 見て、沖縄の今日の気温を知りたいと私は思っていた。
 ところが、である。日本の地図が出て、各地の午前11時40分の気温が並んだのに、 沖縄の気温が出ていない。はっさべな。
 沖縄県のNHK受信料未払い件数は全国有数だと聞く。 だから沖縄の気温を出さなかった、ってことはないよね。 単に忘れただけだよね。でも、忘れてはいかんよね。
 NHKの局内で気づいた人はいただろうか。
 僭越ながら(と本気で思っているわけではない)私は 沖縄県民を勝手に代表して、抗議しておく。沖縄を忘れるな。

「ちゅらさん」の秘密(2003年4月7日)
 東京・赤坂見附で沖縄王技術担当の稲垣(39)と話をした。 NHKで「ちゅらさん」の総集編を見て涙が出たという。
 夕方、東京・神田で友人・寺田(39)と話した。会社内で「ちゅらさん2」を見損ねたと つぶやいていたら、年上の先輩(男)に「録画してあるから貸そうか」と 声をかけられ小躍りしたという。
 自慢するわけではないが、私も「ちゅらさん」が大好きだ。正確には「エリィ」こと 国仲涼子ちゃんが目当てでしかないが。
 この番組が人気を集めた理由はいくつもある。私が指摘しておきたいのは、 まっとうな(という形容は変かな)悪人が1人も登場しないことだ。 ありえない舞台設定、つまり、おとぎ話なのである。

NエッチK(2003年4月4日)
 NHK沖縄放送局の地域ニュースを見ていたら、 「高校性が守る宮古の水」という字幕が出た。 アナウンサーは誤字の訂正をしないまま番組は終わった。
 字幕を見た私は、いったいどんな高校生の「性」なのかと 興味をそそられてしまった。もしかしてこれって、 ニュースに少しでも関心を集めようというNHKの 作戦だったのか(←そんなわけがない)。それとも、 「性」の文字に興奮した私がエッチなのか?

本土に“出張”の日(2003年4月4日)
 悲しいことに今日からしばらく本土に“出張”である。 私の原付きは那覇市内に住む友人に預かってもらって、午後12時40分発の 全日空126便に乗る。
 機種はボーイング777−300である。フライ・バイ・ワイヤをボーイングが 初めて導入したのが777だけど、だからといって墜落しないという 保証にはならない。
 先日、日本航空の機長と電話で話した際「今は機材故障が原因で墜落することは ありえない」と言われたことを思い出し、この言葉をお守りにすることにした。 航空会社は異なるけれど、気にしないことにする。
 定刻通りに離陸し、雲の中を上昇してゆく。 ベルト着用の合図が午後1時5分に消えた。これでひと安心だと思ったら、 14分に点いた。一気に緊張が高まる(私だけか?)。と思ったら16分に消えた。 ただでさえ墜落の心配をしている私である。これだけでヘトヘトになった (やっぱり私だけ?)。
 散歩がてら、後尾の便所まで行ってみることにした。 ほぼ満席だ。墜落したら、この人もあの人もみんな死ぬのか、などと考えてしまう。
 便所は使用中で、若い女性が並んでいた。少し離れた場所で私は待つことにした。 すると、あとから来た初老の男性がその女性と私の間に立った。 「私が先に並んでいます」と言おうかなと思った瞬間、その女性が 「こちらの人が先に並んでいますよ」と男性に注意してくれた。 放っておいてもいいものを、わざわざ関わってくれたのである。
 なかなかできることではない。素晴らしい人だと思った。 この人と一緒なら、墜落死しても悔いはないとさえ思った。
 飛行機は今回も無事に羽田空港に着陸した。JR横浜駅行きのバスに 乗るために外に出る。う〜、寒い。ん? ノドや目がかゆくなってきたぞ。 鼻水が垂れてきた。でもって「はっくしょん」。花粉症の症状だ。
 早く沖縄に帰りたい。でも、今回の本土滞在は短くなさそうである。 つらいなぁ。

便利な店(2003年4月2日)
 私の愛機アプティバを修理に出したので、 電脳情報網(インターネット)や電子手紙(メール)を 利用できない。こういう場合、今までは 「ネット喫茶」に通っていた。
 しかし、今回は宜野湾市大山の国道58号沿いにある ヤフーの「BB SPOT Cafe」に直行している。「沖縄トレンディ」で 紹介したとおり、無料で利用できるからである。 昨日訪ねた時は本土から旅行に来た女性が利用していた。
 私の場合、ここに来て、「ウェブメール」でもって 電子手紙の送受信をしている。と同時に、この文章も 書いている。この店で書き、東京にいる沖縄王のウェブマスターに 送ると、彼が更新してくれる。
 パソコンと通信環境があれば、 どこにいても連絡をとることができる。 そういう時代なのだ。
 何度も書くが、 ここは無料である。沖縄音楽が静かに流れている空間で、 利用料も飲み物代も全部ただなのである。
 太っ腹な経営者に心から感謝して、さて、 今から新都心に向かおう。

ヤモリの季節(2003年3月31日)
 夜、ベランダでヤモリの泣き声が聞こえた。 「ケッケッケッ」といういつものやつである。
 う〜〜。背筋がゾクゾクする。 私はヤモリが嫌いなのだ。
 ヤモリは家を守るから大切にしないといけないなどと 言われるけれど、ヤモリが本当に家を守るわけがない。 家が火事になったらヤモリが消火してくれるとでもいうのか。家に 強盗が入ったら、警察の代わりに助けてくれるとでもいうのか。br>  今日は最高気温が25度を超えたようで、陽気に誘われての お出ましであろう。沖縄は初夏に入った。ヤモリの季節の 始まりでもある。

フルートの世界(2003年3月28日)
 県立芸大生たちによる「フルートの世界を遊ぶ」を、 那覇市のアルテ崎山Aホールに聴きに行った。
 フルートとホルン、ピアノの3人が、 クラシックから「大きな古い時計」までを演奏した。 途中、アルテの三線教室で学ぶ人たちが加わり、 フルートと三線で「芭蕉布」や「島人ぬ宝」を協奏した。 会場である那覇市のアルテ崎山Aホールに、 お客さんたちの合唱が響く。
 客席から「安里やゆんた」の注文が飛び出す。 「フルートの世界」を「沖縄民謡の世界」が一時的に 飲み込んだ。沖縄らしい(?)光景である。

りんけんバンド(2003年3月22日)
 りんけんバンドの生演奏を聴くために、北谷町の「カラハーイ」に行った。
 2階席の端っこに陣取った。というか、まだ午後7時15分ごろだというのに ほぼ満席で、その辺しか席が空いていなかったのである。2階席から見下ろすと、 全体の様子が把握しやすい。
 今日は客席の反応がとてもいい。沖縄勤務を終えて本土に戻る人を送別する団体が2組、 沖縄市園田の団体が1組いたせいかもしれない。団体行動になると、どういうわけか 盛り上がりやすいもんね。
 もちろん観光客らしい人たちもちらほらいた。旅行者は気持ちが高ぶっているものだし、 転勤族は一所懸命に楽しむ。地元客は最初からりんけんバンドに親近感を抱いている。 こうして、お客さんたちとりんけんバンドの間で 「楽しむぞ」「楽しませてやるぞ」という熱い気持ちが渦巻いたからこそ、 一体感のある時間を過ごせたのだと思う。
 大好きな「石川金武辺野古」を生で聴くことができたばかりか、 上原知子さんの独唱を2曲も聞くことができて、私は大満足であった。
 欲を言えば、「カラハーイ」の料理の質をもっともっと上げる必要がある。 私はここで飯を食いたくないのだが、席の確保をしたあと演奏開始まで時間があるので、 食わなくては体がもたない。悔しいけれど注文せざるを得ないのだ。
 ついでに指摘しておくと、予約で1人3500円(予約なしの場合は4000円)というのは 県民にはちと高い。毎月でも来たい私としては、 例えば1年間有効で6回分の回数券を1万5000円くらいで、 12回分の回数券を2万8000円くらいで、県民限定販売してくれたらいいのになぁと思う。

君の名は(2003年3月21日)
 那覇市生まれの友人に「メキシカンレストラン・リノに 行こうか」と誘われた。でも場所がよく分からない。 コザにあるということなので、コザ生まれの友人に 携帯電話で聞いてみたところ、「リノではなくて リオでしょ。復帰前に親父に連れられて行ったなぁ。 場所はね……」とすぐに教えてくれた。
 さっそく訪ねて食べた。1960年開業の店だというから、 私より年上である。
 なお、店の名前は「メキシカンハウス・リマ」だった。

入道雲(2003年3月17日)
 お昼ごろ北谷で見上げた空に入道雲があった。 空気は初夏の雰囲気である。
 この日、パウエル米国務長官に酷似した徳島在住の友人・立石さん夫妻に 北谷のマニカフェで会って情報交換したあと、 沖縄王を読んでくださっている北海道在住の 「紅の飛べない豚」さんこと山下さんに北谷町宮城のカフェブルーで会った。 「私のシマ」なのに、山下さんが私の昼食とアイスコーヒー、ケーキ代を 負担してくださった。
 今日は好天に恵まれ、最高気温が那覇で25度近くまで上がった。 本土から沖縄に来た人は運がいいと思った。 みなさん、入道雲を見たかな?

太陽風オーケストラの生演奏を浴びる(2003年3月15日)
 太陽風オーケストラの生演奏を聴くために、宜野湾市の ヒューマンステージに行った。
 結婚式場NBCのテレビ宣伝の背景音楽に最近使われているから、 認知度は高まっていると思う。NHK総合の「ひるどき日本列島」の 予告編で背景音楽として使われているのを私は先日偶然聞いた。CDは2枚ある。
 音楽の大半に歌詞がないので、聴きながら自分で想像の翼を広げることができる。 往年の名番組「太陽にほえろ!」は挿入曲に歌詞が全くなかった。これと同じで、 言葉に縛られないのがいい。縛られるのも好きだけど(と書くと誤解を招きそうだなぁ)。
 太陽風は毎月第3土曜の夜、ヒューマンステージで定期演奏会をしている。 これから少しの間聴く機会がないかもしれないので、 今回は浴びるように聴いた。

有限会社沖縄王の休業(2003年3月14日)
 有限会社沖縄王を15日付で休業することにした。 税務署や県、西原町で手続きを済ませ、一件落着である。
 これに伴い、王ショップは一時閉店する。注文に 「おまけ」をつけて出血大サービスしてしまうので、 利益などないに等しかった。ただ、沖縄の物産を県外に 売ることに一役買っていることが誇りだった。
 私は商売人に向いていない。

故障するなら街の中で(2003年3月13日)
 那覇市内の国道58号を南に向けて原付きで走っていたら、 「パーン」という大きな音に続いて「シュルシュル」という 音が原付きの機械辺りから出た。何だ何だ何の音だ。原付きが どうかなったのか? 速度を上げようと試みる。しかし、 原動機に連動しなくなっているようで、速度が落ち始めた。
 これが飛行機なら緊急着陸の宣言を検討する必要が生じるけれど、 私が“操縦”しているのは原動機付き自転車である。接地している乗り物は 墜落しないのである。
 天久の信号を過ぎたところで止まった。ちょうどローソンの前だ。 先日中城村で原付きのカギを座席下の空間に閉じ込めてしまった時は慌てた。 しかし、今日は余裕しゃくしゃくである。目の前は那覇の新都心だから、 近くにバイク屋がないわけがない。実際、バイク屋は目の前にあった。 58号の向こう側に「天久ホンダ販売」という看板が見える。「修理が早く 料金が安い」という文字も見える。「安い」の部分は赤字で強調している。 頼もしいぞ。
 ドライブベルトが切れたのが原因だった。修理費は9240円で済んだ。 あと1ヵ月で廃棄するつもりだったので余計な出費ではある。 しかし、中城村でバイク屋を探して歩き回った時の大変さに比べると、 とっても楽ちんだった。
 よくぞ那覇市内の、それもバイク屋の目の前で故障してくれた。

中城村のJA給油所に感謝(2003年3月4日)
 「あ」と思ったけれど遅かった。原付きの 座席の下の空間にこの原付きのカギを入れたまま 座席を降ろしてしまったのだ。雨が降ってきたので、 カッパを取り出した。代わりにカギを置いてしまったのだった。
 慌てて座席を上げようと試みた。しかし、いったんカギが かかってしまうと、開くわけがないのである。そんなことは 分かっている。しかし、原付きのカギも部屋のカギも 閉じ込めてしまったからには、諦めるわけにはいかない。
 場所がよくない。中城村を走る国道329号の 安里交差点近くだ。この周囲にバイク屋がないことは十分察することができる。
 会費を払っている日本自動車連盟(JAF)は 「車しか対応しない」とつれない返事である。 自分のモウロクぶりを恨みながら国道329号を 20分くらい北に歩いてみたが、バイク屋はやはりない。 車の修理工場はあったが、誰もいない。
 こんな私を救ってくれたのは、近くにあったJAの給油所の青年だった。 工具を使ってこじ開けてくれた。座席のカギは壊れたかに見えたが、 カギ穴こそ歪んだものの以前同様にカギをかけたり外したりできる。
 青年は“修理費”はいらないと言う。パソコンのわずかの作業で 2000円の費用を取るベスト電器とは大違いである。
 ありがとう。

危険な車(2003年3月3日)
 赤信号なのに二輪車や車がしれっと左折する光景は 何度も見た。そういうのを見ても最近は驚かなくなったから、 “免疫”が出来たのだろう。
 しかし、これにはたまげた。
 T字路が赤信号になったので、2台のバイクが先頭で停止した。 後ろから白い乗用車が時速20キロくらいでやってきて、反対車線に出て バイクを追い越し、そのまま左折したのである。私は原付に乗って 先頭で停止していたので、「おおおおお」と声が出た。驚嘆と 呆然の気持ちをこめた声である。
 赤信号に気づかなかったのか、交通規則を知らないのか。 私の場合は追突されずに済んで助かった、と“好意的”に考えたほうが いいのだろう。
 私が逮捕権のある立場なら、沖縄では毎日最低でも1人は交通違反で 検挙する自信がある。

後ろから前からどうぞ(2003年2月17日)
 琉球新報記者の与那嶺さんから電子手紙が来た。 読谷村にあるホテル日航アリビラに行き、 「世紀の大発見」をしたという。「ALIVILA」を 前後どちらから読んでも同じになるというのだ。
 おお! すごい発見である。私は「ぽーぽーとさんぴん茶」を 楽しむためにこのホテルを何十回も訪ねたけれど、 気づかなかった。2回目の訪問で発見した与那嶺さんに脱帽せざるを得ない。 私の目が節穴だということがばれてしまった。
 「ALIVILA」は巧んだ命名なのか偶然なのか、などと 考えているうちに、「ぽーぽーとさんぴん茶」を 味わいに行きたくなってきたぞ。
 
<補記>
 アリビラに聞いてみたところ、「アリビラ」とはスペイン語の「アリビオ」(くつろぎ)と 「ビラ」(別荘)を組み合わせた造語だという。
 前から読んでも後ろから読んでも同じという件については、 「(命名にあたって)そういう考え方はありませんでしたから、偶然です」 という答えだった。どちらから読んでも同じになることは、社内報で かつて取り上げられていたそうだ。アリビラの職員も びっくりしただろうなぁ。
 このようにいろんな人が気づいているのだから、命名者が 気づいていないわけがない。もしかしたら最初から密かに“受け”を 狙っていた可能性だってある。お茶目な人なのかもしれない。

前川守賢さんと握手する(2003年2月16日)
 この日が待ち遠しかった。那覇メインプレイスで 「前川守賢ミニライブ」が開かれる日なのだ。
 午後5時開演なのに、10分前には200以上の座席が ほぼ埋まっている。驚いたのは私だけではないようだ。 「時間にルーズなうちなーんちゅなのに、 もうみんな来てる」という声が聞こえてきた。加えて、午後5時の 約30秒前に開演した。私の腕時計は正確無比の電波時計なので、 こういうことが分かる。
 「時間通りに動かない」という県民性(があるとして)が変わったのか。 いや、「元ちゃん」(前川さんの童名。旧暦の正月に生まれたのに由来する)の 歌や演奏を聴きたい人が大勢いる証拠だと私は受け止めたい。 私もその1人である。観客はさらに増えてゆく。元ちゃんのよさを 知っている県民が多いのは嬉しい。
 「遊び庭」や「かなさんどー」、「カチャーチどんどん」を聴き、 幸せを感じる私である。軽快な旋律に体が動き出す。
 私がカメラを持っているのを目ざとく見つけた 元ちゃんは、歌いながら、私に向かって格好を つけてくれる。ありがたいやら照れるやら申し訳ないやらの思いを 交錯させながら、何度もシャッターを押した。
 舞台のあと、一緒に記念撮影してもらった。 握手もしたぞ! 憧れの人を前にして、 緊張してしまった。こういう緊張は何年ぶりだろう。 本多勝一さんに初めて会った時以来かもしれない。
 元ちゃんの歌を楽しめる常設館があればいいのになぁ。

朝日新聞社員バンザイ(2003年2月11日)
 朝日新聞社の労組機関紙『朝日労組』(2月3日付)を入手した。 面白いので紹介しておく。
 <12月に実施した組合員へのアンケートによると、 「春闘で最も訴えたい項目」としてベアを挙げた人は56%と、 半数を超えて圧倒的トップです。昨年は定昇のみでしたが、 定昇のみで生活は維持できたか、という問いには44%の人が 「不十分・やや不十分」と答えています。ほかのアンケート 結果からは、賃金は伸びず、増す将来への不安に対して 日々の出費を削ってでも借金を返し、貯金をしている 姿が浮かんできます>
 これ、このまま『朝日新聞』に掲載できるかな? できるはずがないのだけれど、 万一できるという時は具体的な賃金(年収税込みで1400万円とかそういう数字ね)を 添えてくださいな。
 ちなみに、米国在住経験のある元『読売』記者の友人によると、 米国では新聞記者の収入は日本ほど高くない。 「だって部数が違うもん。それにアメリカなら600万円もあれば 普通に生活できる。日本でも600万円もあれば東京周辺で 何とか生活できるよね。 そもそも新聞記者が高給というのはどうも納得いかない」
 こういう感覚のある人に記者を続けてもらいたかった。

しょーもなー(2003年2月5日)
 大阪府岸和田市立光陽中2年の時の 同級生だった仲宗根徹君に那覇市内で会った。20歳ごろに 東京で会って以来だから、約20年ぶりの再会である。
 仲宗根君とはその後ずっと音信不通になっていた。 「あいつの苗字と濃い顔からすると、 沖縄の出身ではなかったか」と思い出すようになったのは ごく最近のことだ。
 引き合わせてくれたのは『琉球新報』である。私が 担当させてもらっている「紙面批評」を たまたま目にした仲宗根君は、私の顔写真を見て すぐに分かったという(私は昔から男前だったのである)。
 仲宗根君は新報社に電話し、新報記者から私に 連絡が来て、この日の再会となった。 両親の古里である沖縄に彼は5年前から移り住んでいたのだった。
 私は中3の時に転校したので、光陽中の卒業写真集に 載っていない。今も年賀状のやり取りをしている数人(全員男。念のため)以外 は、 私がいたことなど忘れてしまっているだろう。卒業写真集は 大切である。
 仲宗根君は大阪生まれの大阪育ちで、大阪弁の会話が小気味よい。 私がダジャレを言うとすかさず「しょーもなー」と大声で 突っ込みを入れてきた。ボケと突っ込みと笑いがある会話は 楽しい。大阪を中心にした関西の持ち味なのかもしれない。
 通りかかった那覇国際高の生徒さんにお願いして、私のデジカメで 仲宗根くんとの写真を撮ってもらった。当時の担任・東先生に 写真とともに報告するつもりである。
 それにしても、「西野君はラジオで鶴光の番組を聞いていて、 スケベな話をよくやっとったよなぁ」と思い出されてしまうと、 私は全然成長していないことを深く恥じ入るばかりである。って、 全然恥じ入っていないんだけどね。

呻吟する県民?(2003年1月30日)
 『琉球新報』の連載「軍事基地と住民」が新聞労連の ジャーナリスト大賞を受賞した。同紙で「紙面批評」を 担当させてもらっている私は惜しみない拍手を贈る。
 今日付の同紙は見開きで受賞の特集を組んだ。 「識者評論」という欄で、保坂廣志琉大教授が連載について <基地に呻吟する県民の声を代弁し>と記している。同紙は この部分から見出しをとった。
 <呻吟>は「苦しみうめくこと」(『旺文社国語辞典』)という 意味である。のたうちまわる苦しみなのである。
 沖縄に何十年も暮らしていない私でさえ<基地に呻吟> していない県民がいることを具体的にいくらでも知っている。 私が見た限りでは、基地周辺に住んでいない人たちに <呻吟>はほとんどない。 基地がまき散らすさまざまな問題に対して 実感のわかない県民は少なくないと私は思う。
 このような旧態依然とした大雑把な表現はいつまで続くのだろう。 言うまでもないことをあえて 言おう。「理想」と「事実」は明確に 分けるべきである。

千代さん?(2003年1月29日)
 ザ・ブームの「島唄」に「ウージの下で千代にさよなら」という 歌詞がある。NHKの「紅白歌合戦」の録画を 自宅で見ていたビーンさんはこの部分でつまづいた。
 「千代って誰?」
 画面下に歌詞が出ているので、ビーンさんは歌の初めまで 巻戻してあらためて「千代」の正体を突き止めるために歌詞を追った。 ウソのような本当の話である。これを ビーンさんの車の中で聞いた私は大笑いした。
 しかし勘違いした人はビーンさんだけではないようだ。この話を 別の友人にしたところ、「私も最初同じことを思ったぞ」という返事が 戻ってきたからである。
 「千代」さんの正体を知らない人がほかにもいる可能性は高い。

“攻撃”にさらされる私?(2003年1月29日)
 私のパソコンが狙われたとしか思えない。 27日午後9時43分から翌28日午前2時3分までに 約100回の“攻撃”を受けた。28日午後9時8分から翌29日午前8時17分までの間に受けた 回数は約200回にのぼる。“攻撃”の大半が不正侵入を試みたものである。
 年明け早々には脅迫文を受け取った。私の家族が住む共同住宅(神奈川県平塚市) の郵便受けに手紙として届けられていた。家族の命を狙うことをほのめかす 卑怯な内容である。ご苦労なことである。
 差出人は沖縄王の読者でもあるようなので、 あえてここに紹介しておこうっと。

本多勝一はホンダの社長?(2003年1月18日)
 『琉球新報』のワシントン駐在をしている森暢平記者が 沖縄に来たので、会った。毎日新聞福島支局での仲間である。
 新報政経部の與那○記者が運転手を引き受けてくれたので、 その車に乗って読谷村に行った。花織そばでそばを食い、日航アリビラで 「ぽーぽーとさんぴん茶」を食った(食ってばっかりだな)。
 本多勝一さんの話題になった際、○那嶺記者がこう聞いてきた。 「ホンダの社長?」「有名人?」。森記者とともに「朝日新聞の記者だった人で、 ベトナム戦争や南京虐殺の取材をしたんだけどね」と説明したが、 知らないようだ。与○嶺記者は26歳だという。そんなものなのか。
 『週刊金曜日』がかつて出した訂正で忘れがたいやつがある。 ベトナム戦争のころ毎日新聞外信部長(当時)の大森実さんを中心に 同紙で連載して新聞協会賞を受賞した「泥と炎のインドシナ」を 「泥と炎のインドネシア」と間違ったのだった。 私が毎日新聞社に在籍したことがなくても、 押さえておくべき特ダネや連載などは「常識」として知っていたと思う。それだけに 「常識のないやつがいるんだなぁ」と感心した記憶がある(その編集部員は “出世”してデスクになっているそうな。素晴らしい)。
 本多氏は「有名人」かという問いに私は答えることができなかった。 私からすれば「有名人」なのだが、もしかすると、「歴史のカスとして 消えていく」(本多氏が好んで用いた表現ね)ことは避けられないのかもしれないと 思い直したからである。
 いいじゃないか。カスでも。ね、本多さん。

軍手は役に立つ?(2003年1月17日)
 原付きバイクで夕方の大里村を走っていたら、 鼻の右穴に虫らしい何かが入った。指で取り除こうと 鼻に手をやり、「しまった」。軍手を着用しているので、 穴に入らない。
 すぐに名案が浮かんだ。鼻息で噴き出せばいい。思い切り 鼻息を出したら、両方の穴からグジュと鼻水が出た。 鼻水が出ても原付きは急には止められない。
 鼻水をたらして走りながら、軍手をしていることを 思い出した。軍手で鼻水をぬぐう。吸収性がいいので、 すぐに片付いた。
 軍手は役に立つ。

全日空機で沖縄に帰る(2003年1月9日)
 “出張先”から沖縄に帰る日である。うれしいはずなのに、 数日前から心が重い。そう。飛行機に乗らなければならないからである。
 羽田空港の搭乗待合室から、私が乗る全日空の87便が見える。 持参のデジカメ・ディマージュ7iは28ミリの広角から200ミリの望遠までが 撮影できるので、200ミリで操縦室をのぞいてみた。どんな操縦士に 命を預けるのか、せめて顔くらいは見ておきたいと思ったのである(見てどうなる ものでもないのだが)。ところが、遠すぎる。操縦室で人が 動いているらしいという程度しか見えない。あきらめて乗ることにする。
 機種はボーイング747−SRだった。「スーパージャンボ」と言われる。しかし、 登場から20年以上が経っている機種である。 全日空の場合、あと数年でこの機種はすべて引退するはずである。 飛行機好きの人なら「記念に乗っておきたい」と望むかもしれないが、 私は「できるだけ新しいやつに乗りたい」と思う。思ったところで、もう 乗ってしまっているから仕方がない。
 水平飛行に移ったので、心を落ち着けるために読書をすることにした。 かばんから取り出したのは、……『墜落遺体―御巣鷹山の日航機123便』 (飯塚訓・講談社+α文庫)だって。あ〜ん。何でいつもこんな本が出てくるんだ。 いやしかし、いま乗っているのは全日空だから大丈夫に違いない(という 保証は全くないのだが)。そう信じて読むことにする。
 筆者は元群馬県警の警察官だったせいか、警察の活動をたたえる記述が 目に付く。しかし、読み進むにつれて、警察はよくやったという気持ちに変わる。
 さらに読んでいくと、こりゃいかんと思うようになってきた。だって、 以下のような記述が次々に出てくるんだから。
 <顔の骨もぐしゃぐしゃに粉砕している。 担当の警察官が両手で顔をはさみ、粘土で型でもつくるように寄せると、 「あっ、うちの子です」 父親は息子の名前を呼びつつ、 棺の中の遺体を抱き起こした>
 <日航社員が正座して、棺の中に顔を半分入れて謝っている。そこには 下顎部から下の女性の挫滅遺体が納められている。「いいか、よく見ておけ。 私の娘だ。おまえらに殺されたんだ……」 白髪、初老の男性が 職員の後頭部を右手で押さえ泣きながら、呻き声でいう>
 父親の悲惨な状態の遺体の前で、14歳の男の子が 涙を懸命にこらえている。<「泣いたほうがいいよ。我慢するなよ」 担当の若い 警察官が声をかけ、少年の肩を軽く叩く。「僕は泣きません……」 震える声で 少年は同じ言葉を必死にしぼりだした。「泣けよ」といった警察官の目から ボロボロと涙がこぼれ落ちている>
 <挫滅した顔面に三つの眼球がくっついていた。(略)つまり頭の中に 頭が入ったのである>
 すさまじい。途中で読めなくなってしまった。
 でも、この本は多くの人に読まれるべきだと思う。 「命」や「幸せ」を考えさせてくれるからである。地上に降りてから、 じっくり読むことにして、小用を足すために散歩がてら 機内を歩く。
 客室乗務員たちが赤ちゃんをあやしながら、 その母親と談笑している。みんな笑顔である。怖くないのか。 だって、窓の外の景色は雲の上なんだぞ(当たり前)。ふと座席を見回すと、 気持ちよさそうに眠っている初老の男女(夫婦かな)が目に入った。 雲の上にいるのに(当たり前なのは私だって分かっている)、 怖くないのか。
 どうして、空の上でくつろぐことができるのだろう。 乗務員は“職業病”だとしても、一般客までが心底くつろげる わけがないではないか。
 私だけなのか。飛行機の少しの揺れに周囲を見回し、 エンジン音が変わったり聞きなれない音がしたら何だ何だと目を泳がせ、 時折窓の外に目をやって機体が安定しているかどうかを確認し、 でもって飛行中ずっと手に汗びっしょりなのは。
 便所に入る。ここでいきなり乱気流に巻き込まれたら、 私は天井に頭を打ち付け、下手をしたら気絶するかもしれないと 用を足しながら想像する。あらぬ姿で気絶したくないなぁ。 そんな格好(どんな格好だ?)で救出されたら、いくら気を失っていても 恥ずかしい。でも、意識があればもっと恥ずかしい。
 というわけで、3時間近い空の難行(空の上は私にとって「旅」ではない。 難行苦行である)を終えて那覇空港に着陸した。
 思わず叫びたくなる。やっほ〜(ここは山か)。 地上はいいなぁ。沖縄はいいなぁ。

徳島市立高(2003年1月8日)
 私が卒業した徳島市立高の『同窓会名簿2002』を見ると、 1万5336人の卒業生のうち4人が沖縄に住んでいる(01年12月時点)。 ざっと目を通してみたところ、那覇市小波蔵のエンゼルハイム壺川に 住む女性と勤務先が与勝ホワイト歯科という男性を見つけた。
 どんな人たちなのだろう。徳島から遠く離れた沖縄に、 同じ高校の卒業生がいるというだけで、親近感を抱いてしまう。 会いに行こうかなとさえ思う。
 私の同級生の部分を見てみたら、勤務先の欄に 東京大と一橋大があり(それはそれでどうでもいい)、 そろって「助教授」とある。ほかの人は 「阿波銀行」や「徳島県庁」など、まさしく勤務先だけを書いている。 肩書きまで書くやつはほとんどいないだけに、「助教授」の3文字が 異様に見える。
 2人の助教授サマサマのうちの1人とは、一緒に生徒会活動をした。 彼の顔を思い出しつつ、肩書きがよほどうれしかったのかそれとも単なる 馬鹿だったのかと考えた。
 私は勤務先を空白にしてある。高校時代の友人との付き合いに 勤務先は不要だと思っているからである。今も付き合いのある 友人たちは私が何をしているか知っているので、特に問題はない。
 同窓生の“場”に肩書きを持ち込むことの無粋さに助教授サマサマは 気づかないのだろうなぁ。合掌。

 どうでもいい追記。
 上の1文目で私は当初「徳島市立(いちりつ)高」と記した。 略すると「市高」(「いちこう」と呼ばれていた)だったし、 「いちりつこうこう」と呼ぶ人がいたから、 てっきりそうだと思い込んでいた。
 ところが高校の先輩から電子手紙で「読み方が違うのではないか」 と指摘された。校歌には♪とくしましりつこ〜こ〜♪ とあった、というのである。 確かに。
 そこで私は母校に電話して確認してみた。わざわざ沖縄から徳島に 電話したのである(たいそうな話ではないが)。結果は、先輩の 指摘通りだった。卒業して20年以上経つのに、こんにちまで正しい読み方を 知らなかったことに絶句する。
 なお、先輩も試しに母校に電話して聞いてみたそうだ。 その様子を電子手紙で次のように知らせてきた。
 <実は、僕も昨日電話して聞きました。 電話に出た人は、「はい、いちりつこうこうです」と名乗っていました。 受話器の向こうで、「『いちりつ』やなあ、えっ?! 『しりつ』なん?!」という やりとりが聞こえてました>
 私と同じオオボケさん(それもよりによっていま市高で 働いている人である)がいたのがうれしい。この人の 勘違いを修正させることができたのは、私のお陰である。えっへん。

さーたーさまに会う(2003年1月4日)
 沖縄王掲示板に 愉快な書き込みをよくしてくれる「さーたー」さまこと佐藤さん (神奈川県鎌倉市在住)に、私の“出張先”神奈川県平塚市で会った。
 東儀秀樹さんに似た男前である。私が女性なら抱かれてみたいと 思うだろう。それくらいいい男なのである。「女性が100人いて、 私と佐藤さんのどちらかを選べという状況になったら、 悔しいけれど、98人までは佐藤さんに走りますよ」とまで私に言わしめたのは、 佐藤さんが鎌倉のお菓子「あじさい」を土産に持ってきてくれたからではない。
 大手レコード会社にいただけに、沖縄音楽にも造詣が深い。 「自殺者の多い沖縄を、本土の人間が『癒し』という言葉で 表していいとは思えない」など、沖縄に対する姿勢が褒め殺しでない点は 私と共通するものだった。
 駅前のドトールで話し始めたら、たちまち3時間が経った。 それでも話し尽くしていない感じがする。私の場合、取材以外で 初対面の人と2時間以上話が続くのは、 波長が合っている証拠である。
 お土産の「あじさい」は沖縄王の仲間で分けることにする。 さーたーさま、ありがとうございます。

惑わず(2003年1月2日)
 大学時代の友人からの年賀状で、私は今年不惑を迎えることを知った。 引き続き、凛々しく威風堂々と前向きに歩むしかない。
 というわけで、この日の夕方6時ごろ、“出張先”の神奈川県平塚市で、 駅ビル「ラスカ」に行った。本屋をうろうろしたあと、小用を足すために便所に入った。 ズボンのチャックを下ろして それからパンツの“窓”からナニを出すのがいつもの手順である。ところが……。
 ない。再び探すが、ない。少しだけ動揺しつつ、みたび探るが、やっぱりない。 どうしても見つけられないのである、パンツの“窓”が。
 ここですぐに思い至った。パンツの前と後ろを逆にはいているに違いない、と。 これなら、ある事態の説明がつくのだ。ある事態とは、 昨夜からお尻の辺りにパンツの布らしきものが当たっていることを指す。 これまでにない違和感なので、おかしいなぁと思っていた。“窓”の布が 触れていると考えれば、違和感の原因として納得できる。
 昨夜から違和感を抱いてきたのに、 なぜ今日の夕方まで気づかなかったのか。記憶をたどってみる。
 昨夜遅く風呂から出てこのパンツをはいた。寝巻きのズボンには“窓”がないので、 小用を足す時は腰から下にずりおろす(ジャージーと同じね)。今日起きたのは昼ごろで、 起きてすぐに便所に入った際も昨夜と同じように腰から下にさげて用を足した。 午後に大便を排出した際は寝巻きのズボンを膝までおろした。 こうして、気づく機会が全くないまま今日の夕方を迎えたのだ。
 40にして惑わず、という。パンツの前と後ろが反対であることに気づいても、 惑ったところでどうにもならない。実際それほど不自由はないのだから、 あくまでも凛々しく威風堂々と前向きに行くしかないのである。私は惑わないぞ。


©2003, 有限会社沖縄王