変酋長日記 〜2002年3月〜4月までのバックナンバー〜
 

1フィート運動を知らない若者(2002年4月27日)
 今日から7月下旬までの毎週土曜午後、沖縄大で希望者に 文章の書き方などを教える。 昂揚感を保ったまま90分間しゃべりまくった。 私にはいいストレス解消法だ。
 驚いたことが1つある。「1フィート運動」という単語を 出席者13人のほとんど全員が知らなかったのだ。
 1987年2月から89年3月まで沖縄で暮らしていた間、 私はこれに関わってきた。映写機と16ミリフィルムの 『沖縄戦・未来への証言』を持って、 久米島や石垣島といった離島を含む県内各地を回った。
 それから10年以上が経ち、「1フィート運動」を知らない若者が 出てきた。かつては県民ぐるみの運動だった。そうした 活動が停滞していることを、「1フィート運動を知らない若者」の登場が 証明している。
 そういえば、沖縄大の新崎盛暉学長は1フィート運動の会の 運営委員である。新崎先生、こんな状態でいいのですか?
  

タイヤの値段(2002年4月26日)
 那覇市の安里三叉路辺りで、原付きバイクの後輪の空気が突然 抜けてぺしゃんこになった。これで何度目だろう。 ぺしゃんこになるたびに「宜野座村でこうならなくてよかった」と 思ってきた。今回も街中だからバイク屋をすぐ見つけた。 大道の「ホンダ花城」である。
 店のおじさんはタイヤを見て「これは取り替えた方がいい。7000円」と 即座に言う。「7000円は高いなぁ」「6000円でいいよ」。ひとことで 1000円も値下げするのかと内心驚いていると、 「消費税は別ね」と付け加えた。
 修理が終わるまで店内で待つ。コーヒーを出してくれた。 うれしいなぁ。けっこううまい。
 店内を見回すと、タイヤ交換の価格表が 掲示してあるのを見つけた。6500円と 書いてある。ん? ということは……。
 修理が終わり、請求されたのはタイヤ交換費6500円と消費税325円、 それと古いタイヤの処分費200円の計7025円だ。
 どうもよく分からない。でも、おじさんが最初に 言った7000円に近い金額なので、ここは了としよう。
  

サンサンビーチで聞いた言葉(2002年4月24日)
 昼間、友人たちとサンサンビーチで天ぷらや刺身、もずぐを 食べていた時のことだ。「パパありがとう。沖縄に来てくれて」。 子供の元気な声が聞こえた。海から上がってきた4歳くらいの男の子が、 父親らしい男を見上げながら言っているのだ。そばには母親らしい女性と お姉ちゃんらしい女の子がいる。
 家族旅行なのか。あるいは、男の子の言葉通りに解釈すると、 沖縄を離れている父親が久々に帰ってきたと受け止めることができる。
 それはどうでもいいのだが(だったら書くな)、 小さな坊やが親に感謝の言葉を伝えている姿がかわいい。 きっちりしつけられている様子がうかがえた。
 母親らしい女性がヴィトンのかばんを持っていたのは 場違いだったが(大きなお世話だね)。
  

人はなぜ夕陽を見るのか(2002年4月22日)
 サンセットビーチで東シナ海に沈む太陽を見た。 雲がなかったので、海の向こうに消えてゆく様子が よく見えた。沖縄で通算3年以上暮らしてきたけれど、 太陽が水平線に沈む光景を見るのはこれが初めてだ。
 ふと我れに返る。カップルや高校生など約20人が静かに 夕陽を見ている。平均年齢は20歳くらいだろう。どうやら私だけが38歳と 突出している。平日の夕方(この日の日没は午後6時56分)に 海岸で夕陽を見る余裕や機会のある社会人は ほとんどいないということか。
 それにしても、人はなぜ夕陽を見るのか。逆に言うと、 なぜ日の出を楽しまないのか。元旦の「初日の出」を除くと、 日の出を見に行ったという話は聞いたことがない。
 考えた(というほどのことではないが)結果、思い至った。 日の出は早朝である。たいていの人にとってはまだまだ眠い時間帯だ。 わざわざ日の出を見に行くよりは睡眠をとっておきたい。 だから日の出の見物は人気がないのだ。
 反対に夕陽は日常生活の延長で見ることができる。 手軽なのだ。
 夕陽というと哀愁漂う感じがしてカッコイイ。 それを「日没を見に行こうか」や「日没に向かって走れ」と言うと、 哀愁もカッコよさもありがたみも吹き飛ぶ。それがどうしたと言われると、 「どうもしない」と答えるしかないのだが。

球陽堂書房の勉強不足(2002年4月21日)
 『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)を買いに国際通りの 球陽堂書房に行った。ポイントがたまるので、 本はここで買うことにしている。
 ところが、ない。店員さんに聞いてみた。本の題がうろ覚えだったので、 「平和祈念資料館の展示を県が改ざんしようとして問題になったでしょ。 あれを扱った本」と説明した。
 調べてくれた結果、「沖縄本の担当に聞いてみましたが、 分からないようです」という答えが返って来た。 「ほかの本屋では平積みされているのに? 出版されて 1ヶ月も経っているのに? 知らないわけ? それはあまりに 勉強不足だ。ぜひ社長さんか店長さんかあるいはみんなで 話し合う機会があれば伝えてください。勉強不足だって」。 私は力説した。本屋で何を熱弁ふるっているんだ私は。
 どうでもいいような沖縄本は置いているのに、こんな 重要な本を置いていないとは。「専門書の揃った総合書店」らしく してくれ。
 帰宅して、インターネットの「e-hon 全国書店 ネットワーク」で注文した。
 ところで、「勉強不足」という私の伝言、 代表取締役の山田親夫さんにはきちんと伝わったかな?

バトラー将校クラブで大笑い(2002年4月20日)
 沖縄シュラインクラブが主催する会に参加した。 火傷や身体障害の子供のための病院「シュライン・ホスピタル」の 運営費集めを目的にした会である。 沖縄王スタッフのアグネス(声が似ているのでこう呼ぶ)の呼びかけで、 計5人が参加した。
 場所はキャンプフォスター内のバトラー将校クラブである。 私の場合、米軍基地に入るのはこれで2回目だ。クラブの建物がある場所からは 東シナ海が眼下に見渡せる。やはりいい場所を確保している。
 会を仕切るのは米国人だった。でも、給仕をして回っているのは 日本人、恐らく沖縄県民である。米軍基地がなくなると、この人たちの 職場もなくなるわけだ。
 私は米軍基地反対だ。でも、声を大にしてそう言う資格は ないのかもしれないと思う。基地労働者のことを棚に上げて、 就労の名案を出さずに基地撤去を言うのはあまりに無責任だということを、 あらためて実感した。
 さて会である。くじ引きがあった。景品はなぜかすべてツボである。 外人には異国情緒あふれるものに見えるのかもしれないが、 会場の大半を占めた日本人には「何でこんなものを」と不評だったと思う。 これを「ツボを外した」という(もしかして私のギャグも外したかな?)。
 王関係者5人のうち、アグネスとビーンさんがくじに当たった。 おめでと〜うふふふふふはははははは。なぜか笑いが止まらない。

西原町役場の間違いは当たり前?(2002年4月15日)
 西原町税務課から3月8日付で「法人町民税の申告納付について」という 書類が届いた。確かに沖縄王は有限会社だから、法人税を払うのは 当たり前である。
 ただ、私はこの手の書類が苦手だ。「法人税法の規定によって計算した 法人税額」や「みなし配当の25%相当額の控除額」などなど、私には 意味不明の記入項目が並んでいるからだ。
 頭を抱えてきたものの提出締め切りは今日である。書類と にらめっこしていてもラチがあかない。これはもう、 役場に教えてもらうしかない。税務課に電話した。 「今日が締め切りの法人税申告納付について教えていただきたいんですか」
 電話に出た女性職員から、会社名と法人番号を聞かれた。職員は 「調べて電話します」と言う。私は書類の書き方を知りたいだけなのだが。 よく分からないけれど、言われた通り、電話を切って待つことにした。
 電話はすぐにかかってきた。「すみません、こちらの入力の間違いでした。 そちらの会計年度は10月1日から9月30日ですから、この書類は 間違いです」
 へ? とんでもない誤りではある。怒ろうかと一瞬思った。でも、 今日中にこの書類を書いて法人税を払う必要がなくなった喜びのほうが はるかに大きい。
 あとでこの話を沖縄の人に伝えたら、「沖縄の役所だもの。 間違うのは当たり前」と言われた。そ、そうなの?

日本銀行・沼波正さんはエラい!(2002年4月14日)
 今日付『琉球新報』の「日曜論評」に、あの日銀信用機構室審議役・ 沼波正さんがまたまた書いている。失礼ながら最初から最後まで笑える。
 私事で沖縄に来たのに『琉球新報』で<所用で来県した日銀の沼波氏が>などと 書かれたそうだ。それを<「遊びに来た癖になんで新聞に載ってるんだ?!」と 随分からかわれました>と喜色満面である。
 自慢話は続く。宮本亜門さんの家での<ごく内輪の 人たちだけで古典音楽や琉舞を愛でるという何とも贅沢な 催しに、私もお招きいただきました>と胸を張る。
 次に“有名人”の名前を挙げる。宮本氏のほか、 山本彩香さん、高良倉吉さん、名嘉睦稔さん。こんな人たちと 一緒に招かれたのがよほどうれしかったのだろう、 <錚々たるメンバーが集まった>と万歳三唱状態である。
 このあと、国際人の条件として<「自分の住む場所に誇りを 持っていること」だと思っています>と展開する。手垢のついた 説である。高校生程度だ。
 ところで、この安直な説を述べる前に、 沼波氏はこう問題提起した。<私の勤めている日銀も含めて、 世界に通用する人材を一体どうやって育てていくかは、 日本全体にとっての長年の大きな課題です>
 こういう<大きな課題>を<世界に通用>していない沼波氏が 考える必要も資格も全くない。<世界に通用する人材>は沼波氏がいなくても 育っているから、心配ご無用である。
 沼波氏はきっと率直な人なのだろう。エラいことも よ〜く分かったです(笑い)。でも、 どうでもいい自慢話や安易な主張をして恥じない辺りは、 いい加減誰かが注意してあげるべきだ。 直言してくれる友達はいないのか?! 『新報』デスクは 書き直しを指示すべきだった。

滋賀県から来た読者に会う(2002年4月14日)
 滋賀県在住のいおりさん(30代女性)と国際通りで会った。父親と 一緒に沖縄旅行に来ているところだ。
 “出会い”は沖縄王である。沖縄の北部をバイクで回れないかと 考えたいおりさんが「名護*原付きバイク」などで検索したところ、 名護周辺まで原付きで走っていることを記した「変酋長日記」が引っかかった。 私にメールで質問してきたのがきっかけで、やり取りが始まった。
 こんな風に知り合いが増えるのがインターネットの面白さだろう。 匿名性の高いサイトが多い中で、沖縄王は私が顔と個人情報をさらしているから 信頼度は極めて高い(ほんまかいな)。だから、 安心して会えるのだろうと思う。
 雑談に終始した1時間を私は楽しんだ。中でも笑えたのは、 いおりさんが私以上に怖がりであることだ。飛行機は墜落の心配があるという 話の続きで、「船なら大丈夫」と私が言ったところ、 「いえ、船は沈みます」「でも沈むまでに時間がかかるから 脱出する時間がある」「でも沈没しますよ」「……」。  上には上がいるんだなぁ。中森明菜に似た笑顔を見ながら、 感動してしまった。
 どこかでまたお会いしましょう、いおりさん。
 

“高級”腕時計(2002年4月10日)
 西原町の大城時計店から「修理が終わった」と連絡をもらったので、 預けていたセイコーの腕時計を受け取りに行った。
 この腕時計は父親から譲り受けたものだ。高校1年の時から20年以上も 使い続けていたシチズンの腕時計が壊れた頃だったので、 ちょうどいいと受け取った。
 父は自慢した。「この腕時計は時間の狂いがほとんどない。10万円もする 時計だぞ」と。私は言った。「今では電波時計というのがあって、 時間は全く狂わない。そんな時計が2万円弱で売っている」と。 父は二の句が継げない。ごめんね。
 例えば、辞書や百科事典には記述の正確さが求められる。 ディズニーランドにはエンターテインメント性が 求められる。時計には正確に時を刻むことが求められる。 私にとって重要なのは腕時計の「価格」や「メーカー」ではなく、 「正確な時間」だ。時間を見ながら逆算して動いているからだ。
 父譲りの腕時計を沖縄で使い始めて1年もしないうちに壊れた。 文字盤に夜光塗料のようなものが いつの間にか出てきて、しばらくしたら動かなくなったのだ。 大城時計店に持っていったら、夜光塗料かと思っていた青いものは 「カビだよ」と笑われた。確かに、夜光塗料が突然出てくるはずがない。 「これは高級時計で、空調のきいた部屋で仕事をするような人が つけるものだ」とも言われた。私の場合、炎天下あるいは 土砂降りの雨の中を原付きバイクで走る毎日だ。 「それでは壊れるよ。防水機能のある安い時計のほうがいい」と 大城時計店のおじさんは呆れ顔だ。
 修理代が高くつきそうだった。腕時計が父親の形見なら 思い切って修理する。しかし、幸か不幸か元気である。「『この時計止まって しまったんだけどどうしたのかな』と知らん顔してお父さんに 送り返してみたら、向こうで修理してくれるかもしれないよ」と、 大城さんが真面目な顔で提案してくれた。こういう率直な考え方を する人を私は大好きだ。
 結局修理してもらった。1万8000円。新しい腕時計が買える金額だ。 「バンドはまだ使えるのでそのままにしてあるから。 これだけで1万円くらいするよ、トカゲだから」。 ト、ト、トカゲ? 私は爬虫類が苦手である。
 防水は不十分だし、電波時計のような正確さは 期待できないし、それにトカゲだし。いったいどこがどうして 10万円するのか私には理解できない。
 “高級”腕時計は、外に持ち出さないことにした。

日本エアシステム機で沖縄に帰る(2002年4月9日)
 数日前から空を見上げるようになっていた。テレビの天気予報を 食い入るように見て、雲の動きに一喜一憂してきた。 なぜか? 今日、羽田発のJAS555便で沖縄に帰るからである。
 30日夜、琉球新報と沖縄タイムスのホームページを見て、 私は愕然とした。羽田発那覇行きのJAS553便が乱気流に巻き込まれたという ニュースを読んだのだ。新報はこう書いた。<乗客らの話によると、 機体が急降下。紙コップなどが宙を舞うなどして、機内は一時、騒然となった>
 げげげげげげげげげげげげ。紙コップが宙を舞うだって!? あ〜ん、勘弁してくれ。
 さて、搭乗である。離陸前に客室乗務員が「上昇中は少し揺れますので、 シートベルトをしっかりとお締めください」と放送する。揺れるの? 緊張が一気に 高まる。シートベルトをしっかり締めても、墜落したらこれは役に立たないよなぁと 思いながら、いちおうきつめに締め直す。しつこいけれど、墜落したら、 このシートベルトで私の胴体は真っ二つだ。
 滑走し、ふんわり離陸した。素晴らしい。これまでよく乗ってきたのは 定員約500人のボーイングだった。満席状態の時はガタガタと音を立てながら 滑走し、「どっこいしょ」という感じで実に重そうに機のお尻を浮かせる。 今回乗ったエアバス300−600Rは定員が300人弱で、加えてけっこう空席があるせいか、 軽々と浮いたように感じた。
 しばらくすると、機長の機内放送が流れる。落ち着いた口調の低い声は乗客に 安心感を与える。ところが、である。「気流の関係で、 飛行中は断続的に揺れます」と言うではないか。揺れる?! <機体が急降下。 紙コップなどが宙を舞うなどして、 機内は一時、騒然となった>が脳裏をよぎる。
 睡眠不足で眠りたいのに、眠れない。私が眠っている間に 墜落したら困るからである。うとうとしても、 揺れるたびにはっとしてしまい、眠るどころの話ではない。
 あと50分ほどで着陸だと思われる頃、トイレに向かった。 ずっと座っていると疲れるので、いつも散歩がてら歩くことにしているのだ。 機の一番後ろに行く。客室乗務員が飲み物を飲んで一服している。 と、大きな揺れが。おおけっこう揺れているぞ。 思わず左手で衝立をつかむ。
 客室乗務員が声をかけてきた。「空いている席に お座りくださってけっこうですよ」。……。いや、そういう話ではない。 私が衝立をつかんでいるのは、揺れで足元がふらついているからではない。 墜落するのではないかという恐怖心がわいているから、汗が噴出した手で 思わずつかんでいる状態なのだ。私は必死なのだ。
 それにしても、である。トイレから戻る時、 空席の肘掛を上げて横になって寝ているおっさんを見つけた。 勇気があるなぁと感心してしまう。私の席の周囲を見てみると、 左端の若いカップルは仲良く頭をくっつけてぐっすり眠っている。 右端の老夫婦もぐうぐう寝ている。何じゃこりゃ。
 もしかして、もしかして、私だけなのか?????
 ところで、この機種は離着陸時のテレビ放送設備がない。 非常に困る。前が見えないというのは不安である。
 今回も機内で深く後悔した。「飛行機に乗るんじゃなかった」と。 これから本土を往復する時は、沖縄から船で鹿児島に上陸して、 そこから神奈川までは鉄道で行くという計画を真剣に考えている。 これなら「墜落」はあるまい。でも何日かかるんだろ。

沖縄王が2年目に入った(2002年4月1日)
 「王様の掲示板」コーナーに「天使の涙」さんが 「タンカースージ」を寄せてくれた。 読者が覚えてくれていたとは。ハードディスク並みの 記憶力に感動してしまった。うれしくて、 夜中に一人でしみじみしてしまったのはトシのせいか。
 「掲示板」に私は以下のような返事を書いた。
 <ありがとうございます。収益がほとんどないにもかかわらず創刊から1年 続いているのは、創刊前から今日まで関わってくれた仲間である すべてのスタッフの「力」です。
 そんな仲間のことを思わない日は1日もありません。会わない日でも、 1日に1回以上は「あの人は今日はどうしているかな」と考えます。
 創刊前後に関わってくれた仲間は本当によく 取材や執筆などをやってくれました。毎日更新できたのは、 そのころの仲間の「力」です。それを私が十分に生かしきれなかったため、 かえって迷惑をかけたりして、途中で息切れし、週3回更新に 減らさざるを得なくなりました。これは私の失敗です。
 でも、失敗していいと思うのです。 人生に失敗はつきものですし、失敗から学ぶことは たくさんあると私は思っています。 失敗してもまた立ち上がればいいというのが私の 「前向き」な考え(のつもり)です。
 柄にもないことを書いてしまいました>
 ところで、どうでもいいことだが(←だったら書くな)、 ペンネームが<天使>というからには、お祝いを書き込んでくれたのは 男性なのだろう。女性なら「天女」になるのかな? それとも「女神」?  「天女」と聞くと「羽衣」を思い出し、「女神」と聞くと「自由の」が浮かぶ 私の頭は小学校低学年並みかもしれない。

日航機内で読む『日本航空事故処理担当』(2002年3月27日)
 JAL902便で本土に“出張”する。今日の機内で読む本は……と 手に取ったのは『日本航空事故処理担当』(山本善明・講談社+α新書)だ。 日本航空が起こした事故の処理を長年担当してきた元社員の執筆である。 げげげ、よりによって日航機に乗っている時に。 私の読書傾向はどうかしている(笑い)。
 笑っている場合ではなかった。数々の航空機事故が人に起因している ことを具体的に記してあるので、次第に私の鼓動が高まってきた。手のひらに 汗が噴出する。
 気になる記述が目に止まった。 <現場のパイロットたちの間では、「いつ大事故が起こっても 不思議ではない」との懸念が、随所でささやき交わされているという。このささやきが、 単なる杞憂にすぎないことを、私は切に願っている>
 切に願っているって……そ、そんな……山本さん! またまた 「ここで降ろしてくれ」と声を上げそうになる。 万一にも希望がかなって降ろしてもらえたら、私は墜落して死ぬ。 そう思い至り、言葉を飲み込む。
 もう1つ気になる記述がある。<日本航空には、労使間の対立が根強く 残っている。会社は、労使間の信頼関係を回復しないまま今もって 強硬な労務政策を展開していて、組合と激しく対立している><運航本部の 担当役員や職制には組合対策のための要員を配置している><もういいかげんに 組合対策のための人事配置に終止符を打ち、職制と現場の運航乗務員との信頼関係が 生まれるような組織体制を確立する必要がある>
 山崎豊子著『沈まぬ太陽』(新潮文庫)で描かれた日本航空の社内状況は 全く改善されていないということか? 3月1日付『琉球新報』夕刊のべた記事を 思い出した。
 <全日空は最も安全 独航空誌が調査>という1段見出しで、共同通信の配信だ。 <ドイツ航空誌「アエロ」最新号が掲載した世界の主要航空会社の安全度調査によると、 全日空がカンタス航空(オーストラリア)、フィンランド航空、キャセイ航空(香港)、 オーストリア航空と並んで最も安全と評価された>というだけの記述だ。これは 飛行機が苦手な私にとっては大ニュースだった。一面トップに掲載してほしかった。 そんなことを万一してしまったら大広告主の日本航空の顔に泥を塗ることになるから、 できないのは分かっているが。
 全日空に乗るべきだったかなぁと今さら思っても、もう遅い。遅すぎる。
 日本航空のホームページに「安全情報」というコーナーがある。 数日前にたまたま見つけた私は真剣に読んだ。
 <あの痛恨極まりないB747御巣鷹山事故>と明記したうえで、 <当社は全役員・全役員・社員が「整備作業はもちろんのこと、 安全上の必要な措置を確実に実施する。」ことが全てに優先すると認識し、 「迷ったら安全をとれ」を合言葉に>出発の遅れや空港への引き返しを 厭わない旨の決意を述べている。その当たり前の決意が御巣鷹山事故の前に 欲しかったと思うのは私だけだろうか。それに、 <B747>とわざわざ書いてある部分は、御巣鷹山墜落大事故に対する日航の 姿勢を示していると私は思う。
 要するに、520人が亡くなった墜落大事故の原因は、 その機体の後部与圧隔壁のリベットを打ったボーイング社の修理ミスにあります、 としか読めない。修理のあとをチェックする体制のなかった日航自身を 棚に上げていいのかなぁ。私の読み方は穿ったものかもしれない。しかし、 あながち的外れの指摘ではないと密かに思っている。 こう読まれたくなければ、「JAL123便」という表現を 自信を持って(というわけにはいかないだろうが)併記しておくべきだ。
 そんなことを考えている間に羽田空港に無事着陸できた。

こんな『県政だより』でいいのか?!(2002年3月21日)
 郵便受けに入っていた『県政だより』を見て、 のけぞってしまった。表紙の写真がボケボケなのだ。
 試運転中のゆいレールを下から撮った写真である。 無理に拡大したせいか、それとも望遠レンズの倍率が低かったせいか、 写真全体がボケている。それをA4版以上の大きさのカラー写真で 表紙にド〜ンと掲載してしまった。これ、税金で作ったわけ?
 こんなボケボケ写真は普通使わない。
 県広報課によると、業者が提供した写真だそうだ。 「アングルがいいから使ったようです」とのことだが、 撮影の角度以前の問題である。
 誰も強硬に反対しなかったのか? 再撮影を誰も提案しなかった のか? 記念すべき第1号の、しかも年に1回しか発行しない『県政だより』の表紙に こういう写真を掲載した県広報課と業者の「質の低さ」を指摘しておく。
 仕事人としての私が沖縄を見ると、 「プロはいないのか」「給料泥棒め」「社長は何をやっているんだ」「手抜き」 など、生産性の低さに呆れることがままある。 ぬるま湯体質を続ける沖縄、恐るべし。
   ――と書くと、私が偉大な人物のように読めてしまう。 そういうつもりは全くない。自分で言うのも何だけど、私のような かなりいい加減な人間でさえ驚き呆れる状態があることを 指摘したいだけだ。

沖縄から東京に通勤する?(2002年3月20日)
 新聞の折込チラシをふと見ると、「意外」と書くべきところを 「以外」と間違って書いてあるのを見つけた。面白そうなのでさらに見てみる。 ノシアス理想都株式会社が販売する恩納村の土地分譲のチラシだ。
 驚愕したのは「沖縄那覇空港8:20発(ANA80便)で東京へ出勤、 東京羽田空港20:20発(JTA0059便)で帰宅」「東京・大阪へも2時間圏」 という文言だ。う〜ん、すごい。
 上記のような行き帰りでは、東京での滞在時間が9時間30分くらいしかない。 羽田空港近辺の企業で、しかも通勤に飛行機代を出してくれれば可能かも しれないが、そんなことがありうるのか? 東京―大阪間は飛行機で 1時間近くかかるのだから、それを「2時間圏」とひとくくりにしてはいけない。
 それに、そもそも恩名村から那覇空港まで毎日往復できるだろうか。 片道の通勤時間だけで計3時間以上かかる。私なら過労死してしまいそうだ。 往復の飛行機代は1日に(1ヶ月ではない)最も安くても4万円くらいか(笑い)。
 もっと面白いことが発見できそうな気がして、 さらにチラシを見る。那覇空港の写真が掲載されているが、 昔の空港の写真だぞ。
 チラシに地図が記されている。それはいいのだが、 地図にJASの飛行機の写真が載っていて、香港に向かって飛んでいるように見える。 う〜ん、不思議。
 ノシアスグループの社長は浦添市出身で、 人気テレビ番組「マネーの虎」に出ている。このチラシを見た限りでは、 テレビに出ている場合ではないような気がする。
 

牧港漁港でイカスミ汁を食べる(2002年3月17日)
 たまちゃん夫妻が牧港漁港でのフリマ(日本語で何と表現 すればいいのだろうか)に出店すると聞き、 出かける。しかし、着いたのが午後1時半だったせいか(起床したのが 正午だったので、こうなる)、出店の多くが片付け中だ。 たまちゃん夫妻の姿はない。遅かったか。
 せっかく漁港に来たのだから、海産物を食べたい。 そう思って見回すと、漁港の店がある。イカスミ汁(300円)と ご飯(100円)を注文する。フリマ用の料理のようで、安い。
 イカスミ汁は真っ黒だ(当たり前)。まるで墨汁だが、 汁をすすると甘味が口の中にほんのり広がる。極楽である。
 翌日、たまちゃんからメールが送られて来た。朝寝坊したので、フリマに 行かなかったという。こんにゃろめ。でも、私はうまいイカスミ汁に ありつけたので、まぁいいか。人生なんてそんなもんさーね。
 

入れない海岸(2002年3月15日)
 ビーンさん(れっきとした沖縄の人。 ミスタービーンに似ているので、これが愛称になっている)の車で 各地を“視察”する。
 嘉手納町の「カデナマリン」に昼間行ってみた。 門に警備の姿はなく、難なく入る。ヨットハーバーがある。 なかなかいい眺めだ。敷地内で米兵が3人おしゃべりしている。 レストランがあるけれど、まだ開いていない。
 夕方あらためて来てみた。門に警備の米兵がいる。 近づくと「ID?」と聞いてきた。米軍発行の身分証明書や 通行許可証を指すらしい。 自慢するわけではないが、私は持っていない(←自慢にならない?)。 ビーンさんだって持っていない。
 それがないと入れないというわけだ。 このことをスタッフのアグネス(あだ名。アグネスチャンの ような声の持ち主)に話したところ、「だったら、昼間のうちに 入っておいて、レストランが開く夕方までどこかに 潜んでいたらいいんじゃないの」と提案された。
 な、な、なるほど、そういう手があったか。
 

波の上の海岸で夕日を見る(2002年3月13日)
 朝からいい天気だ。私が住む中部はお昼過ぎまでは 「雲ひとつない」状態である。
 夕方、国際通りの球陽堂書房でふと思った。そうだ、夕日を見に行こう、と。 すぐに原付きバイクで走る。泊大橋からは完熟オレンジのような色の 夕日が見える。まだ沈むなよ。
 波の上の海岸に着く。しかし、夕日を見るにはいい環境ではない ことが分かった。ここから見える夕日は、東シナ海に沈むのではなく 慶良間諸島に消えるのだ。思い描いた光景とは違いすぎる。
 それでも、完熟オレンジの色を保ったまま消えた。きれいだなぁ。
 夕日に向かって「バカヤロー」と叫んだかって? 夕日に向かって 走ったかって? そういう状況が浮かぶ人は 初期の青春ドラマを見たことのある30代後半以上の世代だろう。 夕日に向かって走ったら、今の私なら息切れするのは間違いない。
 

沖縄方言を喋ることができない映画『豚の報い』の主役(2002年3月12日)
 TSUTAYA坂田店で映画「豚の報い」のDVDを借りて見た。
 主役の小澤征悦クンがばりばりの共通語(東京弁)で話している。 沖縄の島で生まれ育ったという設定なのに。
 素人演技をさせた崔洋一監督の大失敗である。
 そういえば、今年の正月にNHKが放送した 「ウイーンフィルハーモニー管弦楽団ニューイヤーコンサート」に 崔監督が出演し、指揮者の小澤征爾さんについて親しそうに語っていた。 小澤氏の息子だから甘かったのか?
 どこが舞台でもいいけれど、舞台となった土地の言葉を 役者が努力して使うのは当たり前以前の「演技」である。 その点でいくと、NHKの「ちゅらさん」で、極めて怪しげではあるものの 独自の沖縄方言を操り続けた堺正章は偉かった。
 

戦わずして負ける(2002年3月11日)
 友人のビーンさん(れっきとした沖縄県民。愛称)と一緒に夜のドライブを楽しむ。 北谷町でコーヒーを飲み、沖縄市に向かう。
 ビーンさんの案内で空港通り沿いにあるプールバーに入った。 店内は米兵らしき外人たちがいるだけだ。オレンジジュースを 注文する。300円とは意外に安い。
 店の窓際では沖縄の女性2人と外人男性2人がイチャイチャしている。 いいなぁ……いや、そういうことではなく、日本人女性が 外人に持っていかれるのは何となく嫌だなぁと思ってしまう。
 かといって私には外人にケンカを売る気も力もワザもない。
 38歳の私より相手は15歳以上は若そうだ。身長差は20センチ以上 ありそうだ。体重だって相手が30キロ以上重そうに見える。 腕の長さはどうか。私の拳が相手の顔面を打つ前に、 相手の拳が私の顔を強打するだろう。いや、私の拳はそもそも相手に 届かない可能性がある。それなら蹴りはどうだ。これも相手の足のほうが絶対に 長い。加えて相手は戦争(人殺し)に備えて体を日々鍛えているであろう連中だ。
 ……。どう考えても勝てるわけがない。ビーンさんとともにため息をつく。 戦後国内外で外人相手に戦ってきたといわれる極真空手の 創設者・大山倍達は偉かった。

サンサンビーチで模合(2002年3月8日)
 沖縄王のスタッフ数人で模合をしている。1000円である。 仲間内の遊びだから金額はいくらでもいいのだ。
 一般的な模合は夜に開くことが多いようだ。しかし、 スタッフが集まって企画のことを話し合ったりするので、 私たちは昼間にやってきた。
 一巡するのを記念して、今日は知念村のあざまサンサンビーチに集まった。 風がややあるものの、天気はいい。青空の下に淡青色の海が広がる。 そんな景色を見ているだけで、至福の気分になる。贅沢な時間だと思う。
 ん? どんな企画を話し合ったかって? ……あ、忘れていた。 そんな無粋なことを完璧に忘れさせるほど美しい景色だった。

ANAの機長は機内放送せよ(2002年3月7日)
 “出張”を終え、沖縄に帰る日がやってきた。私は 憂鬱である。また飛行機に乗らなければならないからだ。
 ANA89便が離陸する。羽田沖で旋回しながらぐんぐん高度を上げる。 窓から海が見える。けっこう傾いていることが分かる。 「旋回するな。まっすぐ飛びながら上昇してくれ。 これ以上傾いたら失速するぞ」と心の中で叫ぶ。 機体の傾きと反対方向に体を必死に傾け、 飛行機のバランスを保とうと尽力してしまう。
 私の努力のおかげで失速せずに済み、水平飛行に移った。 ひざ掛けをつかんでいた左手は汗まみれだ。右手で持っていた文庫本は、 汗でカバーがふやけている。われながら阿呆である。
 私の座席は3人がけの通路側だ。揺れるたびに窓の外の景色を見てしまう。 見たからといってどうなるものではない。そんなことは分かっている。 それでも見ずにはおられない。
 本来なら午後6時30分に那覇空港に着陸するはずだった。 ちょうど日没の時間で、空には明るさが残っている。これなら目視で 着陸できると思って選んだ便だ。ところが、羽田の出発が遅れたため、 沖縄に近づく前に日没となった。窓の外は真っ暗だ。 1つ前の便を選ぶべきだったと思っても、遅すぎた。 私の両手から汗が噴き出す。
 私の渾身の祈りのおかげで、那覇空港に無事着陸した。しかし、 今回の“出張”では不満が残った。
 往復ともANAに乗った。超割の期間だったからだ。 そのせいだろう、往復ともほぼ満席だった。しかし、往復の便とも、 機長の機内放送がなかった。「この先、目的地までの飛行はおおむね順調です。 どうぞごゆっくりお寛ぎください」というアレである。 自信に満ちあふれた機長の声が乗客を安心させるのに(もしかして私だけか?)。 放送がないと、操縦席で何か重大な事態に直面していて、 あいさつどころではないのかと心配してしまう(もしかして私だけか?)。
 1万円しか払っていない超割の乗客だから、 あいさつしたくなかったのかな?
 

飛行機の中で『沈まぬ太陽(三)御巣鷹山篇』を読む(2002年3月1日)
 全5巻の『沈まぬ太陽』(山崎豊子・新潮文庫)を読んでいる。 日本航空を舞台に事実関係を取材した“小説”である。
 今日の那覇発羽田行きANA82便の機内で、偶然にも(←怪しい) 3巻目の御巣鷹山篇を読んだ。520人が亡くなった 日航ジャンボ機123便の墜落を描いた巻である。
 墜落した日のことを私はよく覚えている。1985年8月12日だった。 当時大学4年だった私は実家のある徳島市に帰省していた。 阿波踊りの初日だった。たっぷり踊って帰宅した私は、 玄関まで走って出てきた5歳下の弟から「飛行機が落ちた!」と教えられた。
 この本を読むと、飛行機が墜落したら、人間がどんな姿になるのか よく分かった。読み進むにつれ、いま乗っている飛行機から ただちに降りたい心境に陥った。
 沖縄と本土の行き来に飛行機は欠かせない。それは十分分かっている。 でも、できれば乗りたくないなぁ。私だけだろうか、飛行機が 苦手なのは。羽田空港に着陸してようやく緊張が解けた。
 この巻の遺族の悲しみを描写した部分は、 周囲に人のいない場所で一人読むのがいいようだ。


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